田沼意次と松平定信の比較。どちらの政治が支持されていたのか

江戸時代中期の幕政は、大きな転換点を迎えていました。18世紀後半から19世紀初頭にかけて、幕府の財政は慢性的な赤字に陥り、飢饉や米価の変動が社会不安を引き起こしました。こうした状況の中で、異なる方向性を持った二人の政治家が登場します。それが、経済活性化を目指した田沼意次と、道徳的秩序を重んじた松平定信です。

両者の政策は、いわば「経済推進型」と「道徳規範型」という対照的な姿勢を体現しており、当時の人々の支持や反発を大きく分ける要因となりました。本記事では、両者の政治を比較し、当時の支持のあり方、さらに後世の評価までを見ていきます。

田沼意次の政治

経済重視の改革(重商主義・株仲間の保護)

田沼意次は、幕府の財政難を打開するために、従来の農本主義にこだわらず商業や流通の発展を積極的に取り入れました。特に注目されるのは株仲間の公認です。株仲間とは、同業者が結成した組合で、流通や価格の安定に寄与しました。田沼はこれを認めて運上金を徴収し、幕府財政の収入源としました。これは、経済を活性化させるだけでなく、幕府の収入を安定させる効果も期待されたのです。

また、貨幣経済の浸透を促す政策も展開しました。これまでの幕政が農業中心であったのに対し、田沼は都市と市場の成長を重視し、時代の変化に即した柔軟な施策を打ち出しました。

外交・貿易の姿勢(蝦夷地開発・長崎貿易の活性化)

田沼のもう一つの特徴は、外交・貿易への積極的な姿勢です。彼は蝦夷地(現在の北海道)の開発を推進し、ロシアの南下政策に備えるとともに、新たな資源確保を狙いました。また、長崎貿易の活性化にも注力し、中国やオランダとの交易を通じて銀や銅の輸出入を拡大しました。

このように、田沼の政策は閉鎖的な江戸幕府の姿勢に風穴を開けるものであり、視野の広い経済戦略と評価できます。

弊害と批判(賄賂政治・米価高騰・身分不安定化)

しかし、田沼政治には弊害も多く存在しました。特に批判されたのが、賄賂政治です。商人や豪商が田沼やその側近に賄賂を送り、許認可や特権を得るという構造が横行しました。このため、「田沼時代=腐敗政治」というイメージが当時の人々に強く残ることになりました。

また、経済重視の政策が必ずしも庶民に恩恵をもたらしたわけではありません。米価の変動や物価高騰によって生活はむしろ苦しくなり、農村の疲弊も深刻化しました。さらに、身分秩序が揺らぎ、従来の価値観を重んじる層からの反発も強まりました。

田沼意次の政治は、先進的で実利的な側面がある一方で、腐敗や不公平感を伴い、多くの批判を浴びる結果となったのです。

松平定信の政治

倹約令と倹約主義(ぜいたく禁止と質素生活)

松平定信は、老中首座として「寛政の改革」を推進しました。その特徴のひとつが倹約令です。ぜいたくな衣服や娯楽を禁止し、庶民から武士に至るまで質素な生活を求めました。幕府財政の健全化を狙った施策ですが、あまりに厳格で、人々に窮屈な生活を強いたため、必ずしも歓迎されませんでした。

とくに江戸の町人にとっては、経済活動の制約にもつながり、商業の発展を妨げる側面があったといえます。

農村再建策(囲い米制度・帰農奨励)

定信はまた、度重なる飢饉に対応するために農村再建に力を注ぎました。代表的なのが囲い米制度です。これは各地で米を備蓄させ、凶作の際に放出することで米価の急騰を防ぐ仕組みでした。一定の効果はありましたが、農民への負担も重く、長期的には反発を招きました。

さらに、農村から都市に流出した人々を帰農させる政策も行いました。しかし、すでに都市での生活に慣れた人々にとって農村への帰還は魅力的ではなく、思惑通りには進みませんでした。

学問統制と道徳政治(朱子学奨励・出版統制)

定信の政治のもう一つの柱は、学問や思想の統制でした。朱子学を正統とし、自由な学問や出版を制限しました。有名なのが「出版統制令」で、風刺や批判的な内容の書物を取り締まりました。

これは社会秩序を維持する意図がありましたが、文化や学問の発展を阻害する側面が強く、知識人や町人からは不満が高まりました。

同時代における支持と評価

庶民の反応(田沼政治への期待と失望、寛政の改革への反発)

田沼時代には経済の活性化が期待されましたが、賄賂政治や物価高騰に庶民は失望しました。一方、定信の倹約令や農村重視の政策も庶民の生活を圧迫し、「倹約ばかりで楽しみが奪われる」という不満が広がりました。両者ともに庶民から絶対的な支持を得ることは難しかったといえます。

幕府内・武士層の支持(定信への賛同、田沼への反感)

幕府内部や武士層の評価は、田沼と定信で大きく異なります。田沼は商人との結びつきが強く、従来の武士社会の価値観からは「堕落した政治」とみなされることが多かったのです。これに対し、定信は朱子学を重んじ、武士道的な規律を取り戻そうとしたため、武士層から一定の支持を集めました。

文化人・知識人の評価(田沼を先進的とみる声、定信の厳格さへの批判)

文化人や学者の間では評価が分かれました。田沼政治は「時代を先取りした開明的な施策」と肯定する見方もありましたが、当時は「腐敗政治」と批判されることが多かったのです。定信については、学問や出版の統制が厳しく、知識人から反発を招きました。

このように、両者の政治は庶民・武士・知識人といった立場によって支持と批判が入り混じり、一枚岩の評価には至りませんでした。

後世からの評価

歴史学的な再評価(田沼の経済政策への肯定的評価)

近代以降の歴史研究では、田沼意次の政治は従来の否定的な評価から再評価されるようになりました。確かに賄賂政治や不公平な面はありましたが、重商主義的な政策は時代を先取りしていたと考えられます。経済成長を促し、幕府の財政基盤を商業から強化しようとした点は、江戸時代後期の政策の中でも革新的な試みでした。

また、蝦夷地の開発や長崎貿易の活発化は、幕末の開国に先立つ重要な布石とも評価されています。田沼は「腐敗の象徴」とされてきましたが、実際には未来志向の政治家でもあったのです。

松平定信の「守旧派」としての位置づけ

一方で松平定信の「寛政の改革」は、当時の社会秩序を引き締める意味はありましたが、長期的な経済成長や社会の活力を生むには不十分でした。朱子学を基盤とする道徳重視の政治は、武士階級の安定には寄与したものの、商業や文化の発展を抑える方向に作用しました。

そのため、定信の政治は後世において「守旧派的」「短期的な延命策」と評されることが多く、現代では改革の成果を限定的に見る傾向が強いといえます。

現代に通じる視点(経済活性化と規律重視のバランス)

両者の比較は、現代社会にも示唆を与えます。田沼は経済成長を推し進めようとしましたが、腐敗や格差を招きました。定信は規律や秩序を取り戻そうとしましたが、過度な統制が社会の活力を奪いました。

つまり、経済活性化と道徳的規律の双方をいかにバランスよく取り入れるかが重要である、という教訓を読み取ることができます。

対照的な政治が示した江戸幕府の限界

田沼意次と松平定信という二人の老中は、同じ幕府財政難という課題に直面しながらも、まったく異なる方向性を示しました。田沼は商業や貿易を通じて収入を拡大する現実的な手法をとり、定信は倹約と道徳で社会を立て直そうとしました。

しかし、いずれの政策も完璧ではなく、時代背景に左右されました。田沼の時代には天明の大飢饉が発生し、その改革の成果を十分に発揮できませんでした。定信もまた、厳しい政策が人々の心に受け入れられず、長期政権を維持することはできませんでした。

結局、どちらの政治も当時の人々から全面的な支持を得るには至らず、それぞれが光と影を併せ持つ存在として歴史に刻まれることになったのです。二人の対比は、江戸幕府が直面した困難と、その中で模索された多様な解決策を象徴しているといえるでしょう。