幕末の日本は、黒船来航をきっかけに大きく揺れ動きました。長く続いた鎖国体制は限界を迎え、開国か攘夷かをめぐって国中が激しく対立します。
その中で生まれたスローガンが「尊王攘夷」でした。天皇を中心に国をまとめ、外国勢力を打ち払うべきだという考え方です。
この思想は、多くの志士や藩士、公家を動かし、日本の行く末を大きく変える原動力となりました。やがて倒幕運動へとつながり、明治維新を迎えるまでの道筋を形づくったのです。
本記事では、尊王攘夷運動を推進した中心人物たちに焦点をあて、その思想や行動、そして果たした役割をわかりやすく紹介します。
長州藩の急進派
幕末において最も積極的に尊王攘夷を実行しようとしたのが長州藩でした。ペリー来航以後、開国政策に揺れる幕府に対して強硬に攘夷を主張し、実際に下関で外国船を砲撃するなど過激な行動に出ました。その中心には、思想と行動で運動を引っ張った若き藩士たちがいました。
吉田松陰 ― 尊王攘夷思想の理論的支柱
吉田松陰(よしだしょういん)は、長州藩士であり、松下村塾を開いた教育者です。彼は西洋の軍事技術や思想を学び、日本の独立を守るには強い国を作らねばならないと考えました。その一方で、外国を排除すべきだという攘夷思想を強く持ち、弟子たちに熱心に教え込みました。
松陰は安政の大獄で幕府に捕らえられ、30歳という若さで処刑されてしまいます。しかし彼の残した思想は門下生たちに引き継がれ、後の尊王攘夷運動、さらには明治維新へとつながっていきました。松陰はまさに尊王攘夷の「精神的支柱」といえる人物です。
久坂玄瑞 ― 松陰門下を率いた行動派リーダー
久坂玄瑞(くさかげんずい)は、吉田松陰の高弟のひとりで、長州藩の尊王攘夷派を代表するリーダーでした。彼は朝廷とのつながりを強め、三条実美らと共に幕府に攘夷を迫りました。
また、攘夷決行を求める声が高まる中で、久坂は下関での外国船砲撃に深く関与しました。しかしその後、禁門の変で敗北し、自刃して果てます。26歳という短い生涯でしたが、久坂の行動は長州藩を急進的に動かし、幕末史に大きな足跡を残しました。
高杉晋作 ― 奇兵隊を率いた革命的実践者
高杉晋作(たかすぎしんさく)は、松陰門下の中でもひときわ行動力のある人物でした。彼は外国との戦いに敗れて現実を直視し、単なる攘夷ではなく、幕府を倒して新しい体制を作るべきだと考えるようになります。
その思想を実践する形で結成したのが「奇兵隊」です。武士だけでなく農民や町人も含む部隊であり、身分を超えた組織でした。高杉はこの奇兵隊を率いて幕府軍に立ち向かい、長州藩の倒幕路線を決定づける役割を果たしました。病で若くして亡くなりますが、彼の革新的な行動は後の明治維新の先駆けとなりました。
薩摩藩の攘夷志士
長州藩と並んで幕末に大きな影響を及ぼしたのが薩摩藩です。薩摩藩も当初は尊王攘夷を強く掲げ、イギリス艦隊と衝突する「薩英戦争」を経験しました。この戦いを通じて現実を知った薩摩藩士たちは、単なる攘夷から現実的な路線へと舵を切っていきます。その中心人物を見ていきましょう。
西郷隆盛 ― 尊王攘夷から倒幕への橋渡し
西郷隆盛(さいごうたかもり)は、薩摩藩を代表する人物であり、後には「維新三傑」のひとりと称されます。彼は当初、尊王攘夷の立場に立っていましたが、薩英戦争でイギリスの強大さを知ると、ただの攘夷では国を守れないと悟りました。
その後、西郷は尊王攘夷の精神を保ちつつも、幕府を倒して新しい政治体制を築く方向へと傾いていきます。やがて長州と手を組み、薩長同盟を成立させ、倒幕の大きな流れを作り出しました。西郷は尊王攘夷を現実的な倒幕運動へと橋渡しした重要人物といえます。
大久保利通 ― 過激な攘夷から現実路線へ転換
大久保利通(おおくぼとしみち)もまた、薩摩藩の中心人物であり、西郷と並ぶ存在です。彼も若い頃は尊王攘夷に共感していましたが、やがて外国と協調しながら国を強くしていくべきだと考えるようになりました。
大久保は冷静な政治家としての一面が強く、薩摩藩の中でも特に現実的な判断を下しました。明治維新後には内政の中心を担い、日本の近代国家づくりに大きく貢献しました。尊王攘夷から出発しつつも、その限界を越えて新しい方向へ導いた人物といえます。
有村次左衛門 ― 桜田門外の変で命を散らした行動派
有村次左衛門(ありむらじざえもん)は、薩摩藩士であり、行動派として知られています。彼は1860年の「桜田門外の変」で大老・井伊直弼を襲撃し、命を懸けて尊王攘夷を実行しました。
この事件は幕府の権威を大きく揺るがし、全国に衝撃を与えました。有村自身はその場で命を落としますが、その行動は後に続く多くの志士たちに強い影響を与えました。彼のような急進的行動派もまた、尊王攘夷運動を語る上で欠かせない存在です。
土佐・水戸などの地方勢力
尊王攘夷運動は長州や薩摩だけでなく、土佐藩や水戸藩といった地方の藩士たちにも広がっていきました。各地で藩の事情や思想の背景が異なるため、運動の形はさまざまでしたが、それぞれが幕末の動乱を支える重要な要素となりました。
武市瑞山(半平太) ― 土佐勤王党を率いた攘夷急進派
武市瑞山(たけちずいざん/通称・半平太)は、土佐藩で尊王攘夷を掲げた「土佐勤王党」を結成しました。彼は非常に誠実で真面目な人物として知られ、徹底して攘夷を主張しました。勤王党には多くの若者が参加し、土佐藩内に攘夷思想を広めていきます。
しかし、武市は藩内の保守派と対立し、やがて捕らえられて獄死してしまいます。彼の活動は短命でしたが、土佐藩から多くの志士を輩出する土台を作ったと言えるでしょう。
坂本龍馬 ― 尊王攘夷を超えた国際的視野を持つ志士
坂本龍馬(さかもとりょうま)は、尊王攘夷の枠を超えた広い視野を持つ人物として知られています。若い頃は攘夷に傾倒していましたが、やがて世界情勢を学ぶうちに、外国と協力しながら日本を強くすべきだと考えるようになりました。
龍馬は薩摩と長州を結びつける「薩長同盟」を仲介し、倒幕への道を切り開きました。また「海援隊」を組織し、貿易や海運を通じて日本を近代化させる構想を抱いていました。彼は尊王攘夷運動の中に身を置きながらも、より大きな視点で国の未来を描いた存在でした。
藤田東湖(水戸学派) ― 尊王攘夷思想の源流
水戸藩は江戸時代から「水戸学」と呼ばれる学問を重んじ、その中で尊王思想が発展しました。藤田東湖(ふじたとうこ)などの学者は、天皇を中心とした政治を理想とし、幕末の尊王攘夷運動に大きな思想的影響を与えました。
水戸藩の藩士たちは尊王攘夷を強く唱え、ときには過激な行動に出ることもありました。水戸学は吉田松陰をはじめ、多くの志士に影響を与えたため、尊王攘夷思想の源流として重要な位置を占めています。
朝廷を動かした公家たち
尊王攘夷運動は、藩士や浪士だけでなく、京都の朝廷に仕える公家たちによっても推進されました。公家は政治の実権を持つわけではありませんでしたが、天皇を中心とする権威を背景に、大名や志士たちを動かす大きな力を発揮しました。ここでは代表的な公家の人物を見ていきましょう。
三条実美 ― 長州と結んだ若き公卿
三条実美(さんじょうさねとみ)は、尊王攘夷派を代表する公家のひとりです。若くして朝廷内で頭角を現し、長州藩など攘夷派の藩と結びついて活動しました。特に文久の改革では、攘夷を実行するよう幕府に強く迫り、朝廷の意思を表す存在となりました。
しかし、1863年に起きた「八月十八日の政変」で、公武合体派に押し出され、都を追われてしまいます。その後は長州藩を頼り、やがて明治政府樹立後には太政大臣(現在で言う首相のような役職)にまで昇りつめました。尊王攘夷の理想を掲げた若き日の活動が、その後の日本の政治に大きな影響を与えた人物といえます。
岩倉具視 ― 攘夷から公武合体へ転換した政治家
岩倉具視(いわくらともみ)は、尊王攘夷運動の中でも特異な立場にあった公家です。当初は攘夷に一定の理解を示していましたが、外国の実力や日本の国力を冷静に見極める中で、単純な攘夷では国が滅びると考えるようになりました。
そのため、幕府と朝廷の協力を目指す「公武合体」路線を推進しました。後には倒幕に転じ、明治維新後には岩倉使節団を率いて欧米諸国を視察するなど、日本の近代化に大きな役割を果たします。岩倉の存在は、尊王攘夷が単なる排外思想にとどまらず、近代国家への布石となったことを示しています。
中山忠能 ― 尊王攘夷派公家のまとめ役
中山忠能(なかやまただやす)は、尊王攘夷派の公家たちをとりまとめる役割を果たしました。強烈な個性を持つ若手公家や志士たちを支えつつ、朝廷内で尊王攘夷の立場を広めることに尽力しました。
彼自身は過激な行動に走ることは少なかったものの、朝廷と諸藩をつなぐ調整役として重要な存在でした。尊王攘夷運動が全国規模に広がった背景には、このように裏方として支えた人物の働きも見逃せません。
尊王攘夷を掲げた過激行動派
尊王攘夷運動は思想運動としてだけではなく、時に血なまぐさい事件を引き起こしました。幕府や外国人を敵とみなし、暗殺やテロに走る急進的な志士たちが登場したのです。
清河八郎 ― 浪士組を組織した扇動者
清河八郎(きよかわはちろう)は、山形出身の志士で、浪士たちを組織して幕末の動乱に関わりました。彼は当初、幕府の命を受けて浪士組を結成しますが、その目的を「尊王攘夷」にすり替え、幕府を出し抜こうとしました。
しかし彼の行動は周囲の反発を招き、やがて暗殺されてしまいます。短い生涯ながらも、清河の扇動的な活動は尊王攘夷運動の過激な一面を象徴しています。
吉村寅太郎(天誅組) ― 尊王攘夷の象徴的蜂起
1863年、尊王攘夷の理想に燃える志士たちは奈良県五條で挙兵し、「天誅組(てんちゅうぐみ)」と呼ばれる蜂起を起こしました。
主な指導者は、土佐脱藩の吉村寅太郎(よしむらとらたろう)、備前の藤本鉄石(ふじもとてっせき)、越前の松本奎堂(まつもとけいどう)らです。
彼らは朝廷から「攘夷決行」の勅命が下ったと信じ、挙兵に踏み切りました。しかし幕府軍の反撃を受け、わずか数週間で壊滅します。吉村寅太郎は戦死、藤本鉄石と松本奎堂も自刃し、志士たちの多くが命を落としました。
天誅組の蜂起は短期間で失敗に終わりましたが、その犠牲的精神は後世に語り継がれ、尊王攘夷運動の象徴とされています。
尊王攘夷運動の意義と限界
運動がもたらした倒幕への流れ
尊王攘夷運動は、その名の通り「天皇を尊び、外国を打ち払う」ことを目指したものでした。最初は純粋に外国勢力を排除するための動きでしたが、幕府が開国を進めていく中で、やがて幕府そのものを敵視する運動へと発展していきました。
長州藩や薩摩藩をはじめとする各藩の志士たちは、尊王攘夷の旗のもとに結集し、幕府の権威を揺るがしました。その結果、薩長同盟が結ばれ、倒幕への大きな流れが作られたのです。つまり、尊王攘夷は明治維新へとつながる重要なステップだったと言えるでしょう。
過激な攘夷思想の行き着いた先
一方で、尊王攘夷運動には大きな限界もありました。実際に外国船を砲撃してみると、日本の軍事力では太刀打ちできないことが明らかになりました。また、暗殺や襲撃といった過激な行動は、かえって混乱を招き、多くの命を奪いました。
そのため、西郷隆盛や大久保利通、坂本龍馬といった人々は、単純な攘夷ではなく、外国ともうまくつきあいながら国を強くする方向へと考えを変えていきました。尊王攘夷は理想を掲げることで人々を動かしましたが、そのままでは現実の課題を解決できなかったのです。