シーボルト事件をわかりやすく解説!彼はスパイだったのか

シーボルト事件とは、江戸時代後期に起こった外交上の大きな出来事です。

当時の日本は鎖国政策を続けており、外国との交流は長崎の出島に限られていました。

そんな状況の中で、西洋人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、日本の正確な地図を国外へ持ち出そうとしたことが発覚し、幕府が厳しく取り締まったのがこの事件です。

この事件は、単なる密輸やスキャンダルにとどまらず、鎖国体制の性質や日本の安全保障意識、そして学問と政治の境界を考える上で重要な出来事として位置づけられています。

シーボルト事件の背景

シーボルトとは

シーボルトは、ドイツ出身の医師であり博物学者でした。1823年にオランダ商館の医師として長崎の出島に赴任します。

彼は医学にとどまらず、動植物の研究や地理調査など幅広い分野に関心を持ち、日本で多くの知識人や医師たちと交流を深めました。特に長崎で開いた「鳴滝塾」では、日本人に西洋医学を伝え、多くの弟子を育てたことで知られています。

このようにシーボルトは、日本にとって貴重な知識をもたらした存在でしたが、その学問的な探求心がやがて問題を引き起こすことになります。

当時の日本の状況

19世紀前半の日本は鎖国体制のもと、外国との接触は厳しく制限されていました。

特に、日本の国土に関する情報は軍事的に重要であるため、地図や沿岸の情報は「禁制品」とされ、国外への持ち出しは重罪とされていました。

幕府は日本の安全を守るために、こうした情報の流出を極めて警戒していたのです。

このような状況下で、外国人が日本の詳細な地図を持ち出そうとしたことは、幕府にとって国家の存亡に関わる重大事件でした。

事件の発端

日本地図を入手した経緯

シーボルトが手に入れたのは、伊能忠敬の測量に基づく日本地図でした。伊能の地図は非常に正確で、当時の世界水準から見ても貴重なものでした。

これを入手した背景には、日本人協力者の存在がありました。彼らはシーボルトに協力し、地図を渡してしまったのです。

シーボルト自身は学問的興味からこの地図を得ようとしたとも言われます。しかし、結果的に軍事的にも利用可能な情報を外国へ渡そうとしたことが、幕府の厳しい対応を招くことになりました。

密輸発覚の経路

問題の地図は、江戸から長崎に運ばれる途中で発覚しました。幕府の監視体制は厳しく、外国人に関わる荷物は特に慎重に取り調べられていたのです。

このとき伊能の地図が見つかり、シーボルトとその協力者たちが関与していることが明らかになりました。

こうして、学者であるシーボルトが国家機密を国外に持ち出そうとしたとして、大きな事件に発展したのです。

シーボルトはスパイだったのか?

疑惑の根拠

シーボルトが日本の正確な地図を入手し、国外に持ち出そうとしたことから、彼はスパイではないかと疑われました。

地図は単なる学術資料ではなく、軍事や航海に直結する重要な情報でした。そのため、幕府の視点から見ると、外国に提供しようとした行為は敵対的な活動に等しかったのです。

また、シーボルトがオランダ商館の医師として来日していたことも、疑惑を強める要因となりました。

オランダは日本と唯一通商関係を持つ西洋国家であり、ヨーロッパ諸国にとって日本の情報は喉から手が出るほど欲しいものでした。

幕府は「商館の医師という肩書きの裏で、実はオランダ政府の命令を受けていたのではないか」と考えたのです。

実際の評価

しかし今日の研究では、シーボルトを純粋なスパイとみなすのは行き過ぎだとされています。

彼は学問的探求心にあふれた人物であり、日本の自然、文化、医学を広くヨーロッパに紹介したいという情熱を持っていました。地図を欲しがったのも、地理学や博物学の研究を進めるためであったと解釈できます。

もちろん、彼の行動が結果的に政治的・軍事的なリスクをもたらしたことは否めません。そのため「学者でありながら、無自覚にスパイのような役割を果たしてしまった」とする見方が妥当だと考えられます。

つまり、意図的なスパイ活動ではなく、幕府の警戒心とシーボルトの学問的好奇心がぶつかった結果として、事件が大きな問題へと発展したのです。

事件の経過

取り調べと関係者の処罰

シーボルト事件が発覚すると、幕府は徹底した調査を行いました。シーボルト自身も取り調べを受けましたが、彼が外国人であったため、処罰は日本人協力者に集中しました。

地図を提供した者や、その運搬に関わった者は厳しい処分を受けています。なかには流罪や追放といった重い刑を受けた人々もいました。

幕府にとって、国家の秘密を漏らす行為は重大な裏切りと見なされました。特に当時は外国の脅威を強く意識していたため、情報の流出は国防上の危機に直結すると考えられていたのです。

シーボルトの国外追放

シーボルト本人は最終的に死刑や投獄などの厳罰を免れましたが、日本からの国外追放を命じられました。

1829年、彼は日本を離れ、ヨーロッパへ帰国します。このとき、日本に残した弟子や知人たちとの別れは無念なものだったと伝えられています。

国外追放後も、彼はヨーロッパで日本に関する研究を続けました。日本で収集した植物や動物の標本、文化的資料をまとめあげ、学術的成果として発表したのです。

彼の研究は、ヨーロッパで日本を紹介する上で非常に大きな役割を果たしました。

事件の結果と影響

日本への影響

シーボルト事件は、日本に大きな衝撃を与えました。幕府はこの事件を契機に、外国人に対する監視をさらに強めました。

出島での交流は以前から厳しい制限がありましたが、それが一層強化され、外国人が日本の地理や文化について詳しい情報を得ることはますます難しくなりました。

また、地図や地理情報の取り扱いも見直されました。伊能忠敬の地図のような正確な測量成果は、国家機密として厳重に管理されることになりました。

幕府は「情報が外に漏れることが国の安全を脅かす」という意識を改めて確認したのです。

このように、シーボルト事件は単なる一人の外国人学者の問題にとどまらず、日本全体の情報統制を強化する契機となりました。

シーボルトのその後

国外追放されたシーボルトは、ヨーロッパに戻ってからも日本研究を続けました。

彼が出版した著作は、ヨーロッパにおいて日本を紹介する貴重な資料となり、多くの学者や知識人に影響を与えました。

興味深いのは、その後彼が再び日本を訪れることができた点です。幕末期の1859年、開国に伴い再渡航を果たしたシーボルトは、再び日本の人々と交流しました。

以前の事件があったにもかかわらず、彼の学問的な功績は日本側からも一定の評価を受けていたのです。

「排除と継承」が同時に存在する稀有な歴史的事件

シーボルト事件は、一人の外国人学者が引き起こした騒動でありながら、当時の日本社会に大きな波紋を広げました。

禁制を破った行為は幕府にとって深刻な脅威でしたが、その一方で、彼が日本に残した影響や資料は後の時代に学問的価値を持つこととなりました。

つまり、この事件は「排除と継承」が同時に存在する稀有な事例なのです。

追放という形で終わったはずの出来事が、長い時間を経てもなお研究や史料を通して語られ続けている点にこそ、この事件の独自の重みがあるといえるでしょう。