近江屋事件とは→坂本龍馬が暗殺された事件!

近江屋事件(おうみやじけん)とは、幕末の慶応3年(1867年)11月15日に京都で起こった暗殺事件です。

この事件では、土佐藩出身の志士・坂本龍馬と、陸援隊を率いていた中岡慎太郎が襲撃され、命を落としました。

暗殺の舞台となったのは、京都河原町通の醬油商「近江屋」という店の二階座敷でした。

龍馬はそこで逗留していたのですが、襲撃者により斬りつけられ、即死しました。中岡も深手を負い、数日後に亡くなります。

この事件は「幕末の志士を代表する人物が同時に命を奪われた事件」として、日本史上でも非常に有名です。

しかし犯人については、今もなおはっきりと特定されていません。そのため「近江屋事件の黒幕は誰なのか?」という謎は、歴史ファンや研究者の間で長らく議論され続けています。

時代背景

幕末の政治情勢

近江屋事件が起きた幕末期は、日本の体制が大きく揺れ動いていた時代でした。

黒船来航(1853年)以降、日本は西洋列強の圧力を受け、国内では「開国か攘夷か」をめぐって激しい論争が続いていました。

幕府の力は次第に弱まり、薩摩藩や長州藩といった有力藩は倒幕に向けて動き始めます。特に坂本龍馬が仲介した「薩長同盟」(1866年)は、倒幕の流れを加速させる大きな転機となりました。

一方で幕府も黙ってはいません。京都には治安維持を名目とした新選組や見廻組といった組織が活動し、尊王攘夷派や倒幕派の志士たちを監視・取り締まりしていました。

このように、幕府と討幕派が常に緊張状態にある中で、龍馬たちも命を狙われる立場にあったのです。

坂本龍馬と中岡慎太郎の立場

坂本龍馬は土佐藩出身の志士で、政治家でありながら商人としても活動しました。

亀山社中(後の海援隊)を組織し、武器の調達や貿易などを行いながら、倒幕運動を支援しました。

また、「船中八策」という新政府の基本構想を考案するなど、日本の近代国家づくりを構想していた人物でもあります。

一方の中岡慎太郎もまた土佐藩出身で、陸援隊を率いて活動していました。龍馬と共に倒幕運動の中核を担い、政治的な調整役としても大きな役割を果たしました。

薩摩・長州・土佐といった藩の間を動き回り、連携を深めるために尽力していたのです。

二人は立場こそ異なりますが、共に「幕府に代わる新しい時代をつくろう」と考えていました。そのため幕府側や反対勢力から見れば、非常に目障りな存在だったと言えるでしょう。

事件の経過

事件当日の状況

慶応3年(1867年)11月15日、龍馬は京都河原町の「近江屋」という醬油商の二階に滞在していました。ここは一時的な宿泊先であり、海援隊の同志や中岡慎太郎らが出入りする場所でした。

この日の夜、龍馬は中岡と共に今後の政治構想について語り合っていたとされます。二人は新しい日本の未来を語る中、訪問者がやってくる気配を感じました。

玄関に現れたのは、侍姿の数人組。表向きは「龍馬に面会を求める客」のように装っていました。しかし実際には、龍馬と中岡の命を狙う刺客だったのです。

暗殺の手口

襲撃者たちは、部屋に踏み込むなり刀を抜いて斬りかかりました。

龍馬はとっさに鞘(さや)を抜こうとしましたが、間に合わず、頭部を斬られてしまいます。その傷は致命傷で、ほぼ即死状態だったと伝えられています。

中岡も全身を斬られ、特に腹部の傷が深刻でした。彼は倒れながらも必死に抵抗し、近江屋の人々に助けを求めたといわれます。

龍馬はその場で絶命し、中岡は瀕死の状態で一命をとりとめますが、数日後に傷の悪化で亡くなりました。

こうして日本の歴史に大きな足跡を残した二人は、倒れることとなったのです。

犯人と黒幕をめぐる説

新選組犯行説

近江屋事件の犯人として最も有名なのが「新選組犯行説」です。

新選組は京都の治安維持を任されていた組織で、尊王攘夷派や倒幕派の志士を取り締まっていました。

坂本龍馬や中岡慎太郎も倒幕の急先鋒だったため、新選組にとっては「危険人物」でした。

新選組犯行説の根拠としては、当時の風聞や後世の記録に「龍馬を斬ったのは新選組だ」とする証言が残されている点があります。

しかし実際に新選組の誰が実行したのか、また命令が誰から下ったのかははっきりしません。さらに新選組は同時期に他の事件処理で動いていたという記録もあり、矛盾が指摘されています。

そのため、この説は現在では有力視されにくくなっています。

見廻組犯行説

もう一つの有力説が「見廻組(みまわりぐみ)犯行説」です。

見廻組は幕府直属の警備組織で、新選組よりも身分の高い旗本などで構成されていました。彼らもまた、倒幕派の動きを抑えるために暗躍していた存在です。

この説を支持する理由として、見廻組に所属していた今井信郎(いまいのぶお)が「自分が龍馬を斬った」と証言したことが挙げられます。

彼の告白は明治になってからのものですが、具体的な描写が残されており、史実性が高いと考える研究者もいます。

また、幕府が龍馬の動きを危険視していたのは確かであり、幕府直属の組織が動いたと考える方が自然だという指摘もあります。

現在では、この見廻組犯行説が最も有力視されています。

その他の説

上記以外にも、「幕府の陰謀説」や「薩摩藩内の裏切り説」、さらには「仇討ちの一環だった」という説まで存在します。

しかし、どれも決定的な証拠には欠けており、あくまで推測の域を出ません。

なぜ真相解明が難しいのかというと、当時の記録が少なく、関係者が証言を残さなかったことが大きな要因です。

また、幕末という動乱期の中で、政治的な思惑から「誰が本当の黒幕なのか」を曖昧にしたまま歴史が進んでしまったことも影響しています。

事件後の影響

倒幕運動への波紋

近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎が亡くなったことは、倒幕運動にとって大きな打撃となりました。

二人は幕府を倒すだけでなく、その後の新しい日本をどう作るかという「ビジョン」を描いていたからです。

特に龍馬は「船中八策」によって、議会制度の導入や憲法制定といった未来志向の構想を提示していました。

彼らを失ったことで、一時的に倒幕派は方向性を見失ったといわれます。

しかし、薩摩や長州といった大藩が中心となって動きを続けた結果、倒幕はなされ、新政府の樹立がなされました。

龍馬や中岡の存在は、直接は果たせなかったものの、倒幕という大きな流れを後押しした功績として記憶されています。

史料と後世の評価

近江屋事件については、当時の記録が少ないため、後世の研究においても謎が多く残されています。

例えば、犯人を特定するための決定的な証拠はなく、残された証言や文書も断片的です。そのため、歴史学者や作家の間で解釈が分かれ、多くの議論が続いてきました。

また、坂本龍馬という人物は近代以降「理想のリーダー像」として語られることが多く、その死もドラマチックに描かれる傾向があります。

史実としての近江屋事件は謎に包まれていますが、日本人にとっては「時代を変えようとした志士が非業の死を遂げた象徴的な事件」として記憶され続けていることは皆さんご存じの通りです。