応永の外寇をわかりやすく解説!日本と李氏朝鮮の間で起こった軍事衝突

日本と朝鮮の歴史をたどると、両国が互いに交流しながらも衝突を繰り返してきたことがわかります。

その中で特に注目されるのが「応永の外寇(おうえいのがいこう)」と呼ばれる出来事です。

これは、室町時代の日本と李氏朝鮮との間で起こった軍事衝突で、主に対馬を舞台に展開しました。

倭寇の活動や東アジアの国際関係が複雑に絡み合ったこの事件は、単なる武力衝突ではなく、のちの日朝関係を大きく左右する転機ともなりました。

応永の外寇とは

応永の外寇とは、1419年(応永26年)、李氏朝鮮の軍勢が対馬に出兵し、倭寇の拠点を攻撃した事件を指します。

倭寇とは日本を拠点に活動した海賊の総称で、九州北部や瀬戸内海の人々、さらには対馬の勢力も深く関わっていました。

朝鮮は倭寇による被害に長年苦しんでおり、根本的に取り締まるために軍事行動を起こしたのです。

この事件の特徴は、倭寇対策という名目で行われた軍事行動が、結果的に日朝両国の関係を新しい枠組みに再編する契機になったことです。

単に朝鮮が攻めた、日本が防いだというだけでなく、国際秩序や交易のルール作りにまで発展した点が重要といえます。

応永の外寇の背景

倭寇の活動と朝鮮の対策

14世紀から15世紀にかけて、東シナ海や朝鮮沿岸では倭寇と呼ばれる海賊集団が盛んに活動していました。

倭寇は単なる日本人の集団というよりも、商人や武士、時には中国や朝鮮の人々までも巻き込んだ混成集団でした。彼らは武力で沿岸部を襲い、物資を奪う一方で、密貿易を行うこともありました。

特に朝鮮王朝にとって倭寇は深刻な脅威でした。漁村や港町が襲撃されるだけでなく、人が捕らえられて奴隷として売られることもあったと伝えられています。

そこで朝鮮は沿岸防衛を強化し、城郭や烽火台(のろしを上げて敵を知らせる施設)を整備するなど、国を挙げて対策を進めました。

しかし、根本的に倭寇の拠点を叩かなければ被害は止まらないと判断し、最終的に軍事行動へと踏み切ることになります。

日明関係と朝鮮の立場

この時代、東アジアは明王朝を中心とした冊封体制が築かれていました。

つまり、周辺国は明に対して朝貢を行い、その代わりに貿易や外交の承認を得るという形です。朝鮮もその一員として、明との関係を重視していました。

一方で日本は、室町幕府が明との正式な国交を持とうとする中で、倭寇の問題が大きな障害となっていました。

朝鮮としては、倭寇を取り締まらない日本に不満を抱きつつも、交易や外交のパートナーとしての日本を無視するわけにもいきませんでした。

そうした微妙な力関係の中で、倭寇討伐を名目とした「応永の外寇」が発生することになったのです。

応永の外寇の経過

朝鮮軍の出兵

1419年、李氏朝鮮の第4代国王・世宗のもとで、倭寇討伐のための大規模な軍事行動が決定されました。

実際の指揮は宰相・柳廷顕(りゅう ていけん)が担い、朝鮮から200隻を超える船団と、約1万7000人ともされる兵が対馬へと出発しました。

これは当時としてはきわめて大規模な遠征であり、朝鮮の本気度を示すものでもあります。

朝鮮側はこの遠征を「己亥東征」と呼び、単なる防衛策ではなく、倭寇の根拠地を根絶やしにする攻勢作戦として位置づけました。標的は、対馬に拠る倭寇の拠点や村落でした。

対馬での戦い

朝鮮軍は対馬に上陸すると、各地で拠点を攻撃しました。

特に宗氏が支配する地域は戦場となり、多くの村落が焼き払われたと伝えられています。倭寇と結びついていた人々だけでなく、対馬の一般住民も巻き込まれ、大きな犠牲が出ました。

戦いそのものは朝鮮軍が優位に立ったものの、対馬の宗氏一族や地元の武士たちも激しく抵抗しました。

補給の困難や地理的な制約もあり、朝鮮軍は長期の占領を続けることはできませんでした。数週間の戦闘を経て撤退を余儀なくされますが、この遠征によって対馬側は大きな打撃を受けました。

応永の外寇の結果と影響

被害と講和

朝鮮軍の遠征は短期間で終結しましたが、対馬には深刻な被害が残りました。

村落の焼失や住民の犠牲に加え、生活基盤そのものが大きく揺らぎました。宗氏の勢力も痛手を負いましたが、完全に壊滅するには至らず、対馬を拠点とした支配はその後も続いていきます。

戦いののち、両国は衝突を長引かせることを避け、交渉の道へと進みました。こうして結ばれたのが「癸亥約条(きがいやくじょう)」と呼ばれる協定です。

これにより、対馬宗氏は朝鮮との交易を認められる代わりに、倭寇の取り締まりを担う立場となりました。つまり、武力での決着ではなく、外交による妥協点が模索されたのです。

朝鮮と日本のその後の交流

応永の外寇以降、日朝間の関係は大きな変化を見せました。

朝鮮は宗氏を通じて日本との窓口を一本化し、貿易や外交の管理を容易にしました。一方で宗氏にとっては、朝鮮との貿易権を独占的に握ることで、対馬経済を支える基盤が整うことになりました。

また、この枠組みによって倭寇の活動は一定の抑制を受けることとなり、日朝間の交流は以前より安定した形に移っていきます。

もちろん倭寇が完全になくなるわけではありませんでしたが、少なくとも国家間の関係としては、衝突よりも交易を重視する方向へと舵が切られました。

応永の外寇が示した日朝関係の転機

応永の外寇は、1419年に朝鮮が倭寇討伐を目的として対馬へ出兵した事件でした。

大規模な遠征は一時的な戦果をあげたものの、補給の困難や地理的制約から長期占領は不可能であり、最終的には撤退という形で終結しました。

しかし、この出来事は単なる戦闘にとどまらず、両国の関係を再編する契機となりました。

戦後に結ばれた癸亥約条によって、対馬宗氏は日朝間の仲介役として重要な地位を確立し、以後の貿易や外交は宗氏を通じて行われるようになりました。

倭寇の取り締まりという課題は完全には解決されませんでしたが、応永の外寇は日朝両国が「武力衝突から外交交渉へ」と歩みを進める転換点となったのです。

この事件を知ることで、東アジアの国際関係が単なる敵対や侵略の歴史ではなく、交渉や妥協によって形づくられてきたことが理解できます。

応永の外寇はその一例として、今も歴史の中で注目される出来事なのです。