織田信長といえば、戦国の常識を覆し天下統一に最も近づいた武将として広く知られています。その壮絶な最期を迎えた「本能寺の変」は、日本史上屈指のクーデター事件として誰もが耳にしたことがあるでしょう。
しかし、その最期にはいまだ解き明かされていない大きな謎が残されています。それが「信長の首はどこへ行ったのか」という問題です。戦国時代において首は勝者の象徴であり、権力を掌握するための決定的な証拠でした。それにもかかわらず、信長の首は歴史の記録から忽然と姿を消し、現在まで行方が分かっていません。
誰が切り取ったのか。どこに運ばれたのか。そしてなぜ、その後の歴史に姿を見せなかったのか。この謎は、明智光秀の「三日天下」や豊臣秀吉の台頭とも深く関わり、後世の伝承や文化にも大きな影響を与えてきました。
本記事では、各地の伝承、史料に残る記録などを整理しながら、織田信長の「首問題」を多角的に探っていきます。
信長の「首問題」とは何か
1582年6月2日、京都の本能寺に滞在していた織田信長は、家臣の明智光秀による突然の謀反に襲撃されました。
光秀は中国地方へ出陣していた羽柴(豊臣)秀吉の援軍要請に応じていた信長を狙い撃ちにし、わずかな供回りしかいなかった信長を圧倒しました。信長は抵抗を試みましたが、多勢に無勢であり、やがて自ら命を絶つことを選んだと伝えられています。
この事件は「本能寺の変」と呼ばれ、日本史における最大のクーデターとして知られています。天下統一目前にして信長は倒れ、戦国の勢力図は大きく揺らぎました。
ここで重要なのが「首」です。戦国時代において大名の首は、勝者が自らの正当性を示すための最重要の戦利品でした。つまり「信長の首を誰が手にしたのか」という点は、その後の権力闘争に直結する意味を持ちます。
しかし、信長の首については確かな記録が残っておらず、現在まで謎のままです。この「空白」が後世の想像や伝承を生み、歴史の大きなミステリーとして語り継がれてきました。
首をめぐる諸説 ― 誰が切りどこへ行ったのか
明智光秀軍が切り取り、安土城方面へ運んだ説
最もよく知られているのは、信長が自害した直後に明智光秀の軍勢が首を確保し、安土城方面へ運んだとする説です。光秀にとって信長の首は、自らが正当な権力者であることを示す決定的な証拠であり、諸大名を従わせるための切り札でした。戦国時代の慣習を踏まえると、敵将の首を持ち帰るのは当然の行為であり、光秀がそれを狙ったこと自体は不自然ではありません。
ただし、安土城に首が到着した記録や痕跡は残っていません。移送の途中で何らかの理由により失われたのか、それとも別の場所に意図的に留め置かれたのかは分かっていません。もし途中で消えたのであれば、輸送を命じられた部隊が混乱や戦闘に巻き込まれた可能性も考えられますし、光秀自身が戦況を見極めたうえで別の場所に隠す決断を下した可能性もあります。いずれにしても、この「到着しなかった」という一点が大きな謎を残しているのです。
家臣(森蘭丸など)が信長自害後に処理した説
もう一つ有力とされるのが、信長の忠臣である森蘭丸や寺井らが、信長の首を自ら処理したという説です。彼らは主君が討たれた後も徹底的に抗戦し、最後まで信長を守ろうとしました。忠誠心の厚い家臣が「首を敵に奪わせてはならない」と考え、火中に投げ込む、あるいはあえて切り落として持ち去り、最終的に隠したり焼却したりした可能性は十分にあります。
この行動は戦国武士の「忠義」の観点からも自然であり、信長の首が後世に残らなかった理由を合理的に説明できます。光秀にとって最も欲しかったはずの首が手に入らなかった背景には、こうした家臣たちの自己犠牲的な行動があったのかもしれません。
焼失・行方不明となった説
本能寺の変は戦闘の末に大規模な火災を引き起こしました。建物は炎に包まれ、内部のものはほとんど焼失したと伝わっています。信長の首もその炎に巻き込まれて跡形もなく消え去ったとする説も存在します。この場合、誰かが意図的に隠したのではなく、自然な成り行きとして「消滅」したということになります。
この説が正しければ、首の奪取や輸送といった後の動きは一切なく、「首探し」そのものが意味をなさないことになります。歴史に空白を残した原因が「焼失」という単純な事実であったとするなら、それは皮肉でもあり、逆に人々が「首はどこかにあるに違いない」と考えた心理をよく説明できるでしょう。
京のどこかに隠匿された説
さらに一部では、信長の首は京都のどこかに密かに隠されたと考えられています。光秀軍が確保したものの、状況の変化や戦況の悪化によって安土城へ運ぶことが難しくなり、やむを得ず京の町の一角に埋めたり隠したりしたという筋書きです。
この場合、首は確かに存在していたものの、後に誰の手にも渡らず、歴史から姿を消したことになります。密かに埋められた首は、やがて所在不明となり、後世に「首塚伝説」や「秘蔵された首」といった噂を生み出す素地となったと考えられます。
歴史資料と一次史料の検証
『信長公記』に見る記述
信長の家臣であった太田牛一が著した『信長公記』は、信長に関する最重要の一次資料です。しかし、この記録においても「信長の首がどこへ行ったのか」については明確に記されていません。つまり、最も信頼性の高い記録ですら、核心には触れていないのです。
『フロイス日本史』の証言
イエズス会宣教師ルイス・フロイスが残した『フロイス日本史』でも、本能寺の変の様子は詳細に描かれています。しかしやはり、首の所在については曖昧なままです。彼は西洋人としての視点から事件を記録しましたが、それでも信長の首に関して確かな情報を得ることはできなかったようです。
その他の同時代資料との比較
他にも『明智軍記』や『川角太閤記』など、後世に編纂された軍記物や記録があります。これらには首の所在についての記述が見られる場合もありますが、後世の脚色が加わっている可能性が高く、信憑性は限定的です。総じて言えるのは、一次史料・同時代資料のどれを見ても「信長の首の行方」を断定できる情報は存在しないということです。
各地に残る伝承
京都を中心とした首塚伝説
京都には、信長の首を埋めたとされる「首塚伝説」がいくつも存在します。中でも有名なのは、京都市内に残る「信長首塚」と呼ばれる場所です。ここでは、古くから信長の怨霊を恐れる人々によって供養が続けられてきました。天下人であった信長の首が行方不明になったことは、人々の想像力を大きく刺激し、京都各地に小規模な塚や供養塔が建てられる要因となったのです。
安土・近江地方に伝わる逸話
信長の本拠地であった近江・安土周辺にも、首を持ち帰ったという伝承があります。光秀軍が安土城方面へ運んだものの、その後の混乱で所在が分からなくなったとされる説です。実際に、地域には「信長の首を祀った」と伝わる小さな祠や供養塔が点在し、地元の人々の信仰対象となってきました。これらは歴史的に裏付けられたものではないにせよ、信長を弔いたいという民衆の思いを反映したものといえるでしょう。
静岡・富士宮・西山本門寺に伝わる首塚伝承
京都や近江から離れた静岡県富士宮市の西山本門寺にも、信長の首が埋葬されたという伝承があります。本門寺境内には「信長公首塚」と呼ばれる石塔が残されており、地元では長年供養が続けられています。この地に伝わる説では、首は本能寺から持ち出され、最終的にこの寺に安置されたとされます。富士の麓に位置する本門寺に信長の伝承が結びついたのは、後世の創作的要素も含まれる可能性がありますが、首の行方をめぐる謎の大きさを物語っています。
西国・九州にまで広がる異説
さらに畿内から遠く離れた西国や九州にまで、「信長の首が密かに運ばれた」とする伝承が存在します。例えば、首を持ち出した武将が遠方まで逃げ延び、その地に葬ったという説や、土地ごとに「ここに首が眠る」と語られる逸話があります。これらの伝承の多くは後世に形成されたもので、史実というよりも噂や想像の産物に近いものです。しかし、それだけ信長という存在が日本各地の人々にとって大きな影響力を持ち、語り継がれる対象であったことを示しているといえるでしょう。
首の行方をめぐる歴史的インパクト
豊臣秀吉の勢力拡大との関係
信長の首が不明なままになったことは、のちに台頭する豊臣秀吉に有利に働きました。もし光秀が信長の首を確保していたならば、「信長を討ち取った者」としての正統性を強く主張できたはずです。しかし首を示せなかったことで、光秀は諸大名の支持を十分に得られませんでした。その結果、山崎の戦いで秀吉に敗北し、短期間で滅亡することにつながったと考えられます。
明智光秀の求心力と「首」の政治的価値
戦国時代において大将の首は、ただの戦利品ではなく「権力を掌握する証」でした。光秀にとって信長の首は、自らの謀反を正当化し、天下の支配権を握るための最も強力なカードだったといえます。それを示せなかったことが、光秀の立場を著しく弱め、わずか11日で「三日天下」と呼ばれる結果を招いたのです。
後世の文化・文学に与えた影響
信長の首の行方は、後世の人々の関心を集め、様々な文学・芸能作品の題材となりました。能や歌舞伎、さらには歴史小説においても「信長の首」はしばしば登場します。首が行方不明であったからこそ、史実と伝承の間に空白が生まれ、そこに人々の想像力が入り込む余地があったのです。この「謎の余白」が、信長のカリスマ性をさらに強めたともいえるでしょう。