信長包囲網をわかりやすく解説→大名と宗教勢力が連携して織田信長に対抗した動き

信長包囲網とは、戦国時代に織田信長の勢力が急速に拡大していく中で、危機感を抱いた周辺の諸大名や宗教勢力が連携して信長を抑え込もうとした動きのことを指します。

この包囲網は一度に形成されたわけではなく、状況の変化に応じて複数回にわたって展開されました。

その結果、信長は数多くの戦いや衝突を経験し、勢力を拡大していく過程で大きな試練に直面することになります。

本記事では、信長包囲網がどのように形成され、どのように崩れていったのかを、時系列に沿ってわかりやすく解説していきます。

信長包囲網が形成される背景

織田信長の急速な台頭

織田信長は尾張の小さな戦国大名に過ぎませんでしたが、美濃の斎藤氏を攻略して勢力を拡大し、天下布武という理想を掲げました。

とくに1568年に室町幕府の将軍・足利義昭を奉じて上洛したことで、中央政界に大きな影響力を持つようになります。

この急速な台頭は周囲の大名にとって脅威となり、信長の存在感はますます増していきました。

周辺勢力の不安と利害

信長の進出は多くの勢力にとって看過できないものでした。足利義昭は当初こそ信長を頼りにしていましたが、やがて自らの権威を保つために反信長の動きを見せるようになります。

また、近江の浅井氏や越前の朝倉氏、本願寺勢力、さらには甲斐の武田氏などもそれぞれの立場から信長を牽制するようになりました。

こうして「信長を包囲して抑え込もう」という動きが自然と生まれていったのです。

信長包囲網の第一次形成(1570年代前半)

浅井・朝倉連合との対立

最初の大きな包囲のきっかけとなったのは、信長と同盟を結んでいた浅井長政の裏切りでした。

信長は越前の朝倉義景を討とうと行動を起こしましたが、その際に浅井氏が朝倉氏の味方をしたのです。このことによって織田軍は挟み撃ちにあい、命からがら京へと撤退しました。

これ以降、浅井・朝倉連合は信長にとって大きな脅威となり、姉川の戦いをはじめとする数々の戦闘が展開されました。

比叡山延暦寺の参戦

さらに比叡山延暦寺も信長を敵視するようになります。延暦寺は中立的な立場を取ることも多かったのですが、当時は浅井・朝倉と結び、信長を圧迫しました。

信長はこれを重大な脅威とみなし、最終的には延暦寺を焼き討ちにします。

この行為は信長の苛烈さを象徴する出来事であり、以後「信長は容赦のない武将」というイメージを広く世に知らしめることになりました。

第二次包囲網の広がり(1570年代後半)

本願寺との対立

第一次包囲網が形成されたのと同じ頃、石山本願寺を拠点とする本願寺勢力も信長に敵対しました。

石山本願寺は現在の大阪城の場所にあたり、一向宗門徒が多数集まり強固な軍事力を持っていました。

一向一揆は信長にとって厄介な存在であり、各地で織田軍を悩ませていました。とりわけ石山戦争は長期化し、信長は膨大な兵力を投入せざるを得ませんでした。

宗教勢力と戦国大名が手を結ぶことによって、包囲網はより強固なものになったのです。

武田信玄の西上作戦

さらに大きな脅威となったのが甲斐の武田信玄でした。1572年、信玄は上洛を目指して大軍を率いて西へ進軍しました。これを西上作戦と呼びます。

信長は徳川家康と連携して武田軍を迎え撃ちましたが、三方ヶ原の戦いでは家康が大敗を喫します。信玄の軍事力は当時随一であり、信長にとって大きな脅威でした。

しかし信玄は西上の途中で病没してしまい、武田軍は撤退を余儀なくされます。この出来事によって包囲網は大きく揺らぎ始めました。

包囲網の瓦解と転機

信玄の死と浅井・朝倉の滅亡

武田信玄の死は信長にとって幸運な出来事でした。さらに浅井長政と朝倉義景も織田軍の攻撃によって滅ぼされます。

これにより、信長を直接脅かしていた近隣の敵対勢力は大きく減少しました。
包囲網の主要な柱が相次いで崩壊したことで、信長の勢力は再び伸びやかに拡大していきます。

石山戦争の長期化

一方で本願寺との戦いは長期にわたって続きました。石山戦争は十年以上に及び、信長の大きな負担となりました。

しかし最終的には朝廷の仲介によって和睦が成立し、本願寺は石山を退去します。これによって宗教勢力による大規模な包囲も終わりを迎えました。

義昭追放と将軍権威の失墜

信長を擁立して上洛していた足利義昭も、次第に信長と対立を深めました。義昭は反信長勢力と結びつき、織田軍を牽制しようとしましたが、最終的には信長に敗れて京から追放されます。

この追放劇によって室町幕府の将軍権威は決定的に失われ、日本の政治構造は大きな転換点を迎えました。信長は以後、幕府を介さず独自の道を歩むことになります。

信長包囲網の歴史的意義

包囲網が信長に与えた影響

信長包囲網は、織田信長にとって常に大きな試練でした。周囲の有力大名や宗教勢力が一斉に敵に回る状況は、信長の戦略眼や組織力を試すものでした。

その結果、信長はより苛烈で迅速な戦術を取るようになり、比叡山焼き討ちや強硬な外交姿勢など、従来の戦国大名には見られない過激な行動を見せるようになりました。

また、包囲網によって信長は軍事だけでなく経済・行政面でも改革を推し進めざるを得ず、その後の天下統一の道筋をつくる契機となりました。

包囲網崩壊後の展望

包囲網が崩壊すると、信長の勢力は急速に拡大していきます。浅井・朝倉を滅ぼし、武田を抑え、本願寺とも和睦を結んだことで、信長は国内において圧倒的な立場に立ちました。

この過程で築かれた支配体制や戦略は、後の豊臣秀吉や徳川家康にも受け継がれ、日本史における重要な転換点となっていきます。

信長包囲網は一見すると信長を苦しめただけの出来事に見えますが、実際には彼をより強くし、後世に大きな影響を与えたのです。

危機と試練がもたらした信長の成長

信長包囲網とは、織田信長の勢力拡大を恐れた諸大名や宗教勢力が連携して形成した反信長の動きでした。

第一次包囲網では浅井・朝倉や延暦寺が、第二次では本願寺や武田信玄が信長を圧迫しました。

しかし信玄の死や浅井・朝倉の滅亡などによって包囲網は次第に崩れていき、最終的には信長が優位に立ちました。

この一連の流れは、戦国時代の政治的な勢力図を大きく塗り替えただけでなく、信長という人物を「苛烈な改革者」として成長させる契機にもなりました。

包囲網は信長にとって最大の危機であると同時に、天下統一へと進むための重要なステップでもあったのです。