日本の歴史に残る数々の戦いの中で、源平合戦ほど多くの人の記憶に鮮やかに刻まれたものは少ないでしょう。
その合戦のクライマックスの一つ、屋島の戦いにおいて語り継がれてきたのが、那須与一の「扇の的」の逸話です。
小舟に立てられた扇を一矢で射抜いたとされるこの場面は、『平家物語』を通じて広く知られ、今日でも武勇談の代表格として取り上げられます。
しかし、この逸話は本当に史実だったのでしょうか。それとも後世の創作や誇張が混じったものなのでしょうか。
扇の的の場面とは
背景:屋島の戦い
屋島の戦いは1185年、源義経が率いる源氏と、平家一門との間で繰り広げられた戦いです。
屋島は現在の香川県高松市付近にあたり、平家は瀬戸内海の制海権を利用して海上を拠点としていました。
陸上に布陣した源氏と、海上に陣取る平家という対峙の構図が、戦場の特色を大きく形づけていました。
このように陸と海でにらみ合う状況では、通常の合戦のように大軍同士が一気に衝突するのは難しく、互いに牽制し合いながらも緊張感が続いていました。
その中で、戦いの行方を左右する「一射」が歴史的場面を生むことになります。
扇の的の挑発
『平家物語』によると、屋島の戦いで平家方は源氏を挑発するため、船の上に美しい赤い扇を立てました。
これはただの挑発ではなく、源氏の射手の技量を試すような意味合いを持っていたと考えられます。
源氏軍はこの挑発に応じるべく、誰が射るべきかを協議しました。
数多くの武将の中から選ばれたのが、下野国(現在の栃木県)出身の武士、那須与一でした。
与一は弓の名手として知られ、その一矢に期待が託されることになります。
那須与一の矢
与一は舟に乗り込み、波に揺れる中で弓を構えました。
風や潮流、船の揺れ、そして距離の遠さといった条件を考えれば、的を射抜くのは至難の業だったと想像されます。
それでも与一の矢は放たれ、見事に扇の要を射抜いたと伝えられています。扇は見事に舞い上がり、海に落ちました。
この瞬間、源氏軍からは大きな歓声が上がり、士気は大いに高まったといわれています。
史実性の検討
主要史料の比較
那須与一の扇の的の場面を最も有名に伝えているのは『平家物語』です。
この物語は鎌倉時代に成立した軍記物語で、琵琶法師によって語り伝えられ、多くの人々に親しまれてきました。与一が扇を一矢で射抜いたくだりは、その中でも特に劇的に描かれています。
一方で、『源平盛衰記』にも同様の場面が記されていますが、描写の細部には差異があります。例えば、距離の表現や観衆の反応、扇が海に落ちる様子などに、誇張とも思える部分が目立ちます。
また、公家が残した日記や当時の記録の中には、この場面を直接伝えるものはほとんど存在していません。これは、この逸話が主に軍記物語を通じて広まった可能性を示しています。
つまり、与一が実際に扇を射たことを裏づける一次史料はなく、後世の物語的要素が大きく関わっていると考えられます。
文学的演出の可能性
軍記物語というジャンルは、必ずしも史実を正確に伝えることを目的としていません。武士の武勇や忠義を美しく描き、聴衆を惹きつけることが大きな役割でした。
与一の矢が的中する場面は、源氏の士気を高める象徴的な出来事として極めて効果的であり、文学的演出として強調された可能性が高いといえるでしょう。
また、戦場においてこうした「見せ場」を作ることは、敵味方双方に対する心理的効果も持ちました。
与一が扇を射抜く場面は、源氏軍の勇敢さを際立たせる演出であると同時に、平家の挑発を逆手に取った象徴的な勝利として語り継がれたのです。
矢技の現実性
とはいえ、この場面が完全な虚構であると断じるのも早計です。
当時の弓は現在の競技弓道よりも威力と射程に優れ、熟練の武士であれば相当な精度で矢を放つことができました。
とはいえ、揺れる船上から遠くの小さな扇を正確に射抜くのは極めて困難であり、偶然の成功であった可能性も考えられます。
現実的には、的の大きさや距離が物語の中で誇張されていることは十分にあり得ます。
実際の距離がそれほど遠くなければ、与一ほどの弓の名手であれば命中は不可能ではなかったとも考えられるのです。
結論
伝承と史実のあいだ
那須与一の扇の的の逸話は、完全に史実として裏づけられるものではありません。
一次資料が乏しく、主に軍記物語の記述に依拠していることから、文学的脚色が大きく加わっていると考えるのが妥当です。
しかし一方で、実際に与一のような武士が的を射抜いた可能性を完全に否定することもできません。
当時の武士の弓術の水準や武勇を示すために、現実の出来事が誇張され、物語化されたと考えれば、この逸話は史実と伝承の中間に位置するものといえるでしょう。
物語としての価値
扇の的の場面は、源氏軍の士気を高め、敵味方双方に大きな印象を残す象徴的な出来事として描かれています。
その意味で、たとえ誇張が含まれていたとしても、武士の理想像や戦場での緊張感を鮮やかに伝える役割を果たしました。
この逸話を通じて私たちが知ることができるのは、単なる「弓の妙技」ではなく、軍記物語が描き出そうとした武士の姿そのものです。
那須与一が放った一矢は、史実と伝説の境界を越えて、日本の歴史と文学に深く刻まれ続けているのです。
的当てと武士の文化
扇の的の逸話に関連して興味深いのは、武士の世界における「的当て」の位置づけです。中世の武士にとって、弓術は戦場の技術であると同時に、精神修養や芸能的な要素も含んでいました。
例えば、宮廷や社寺で行われた「大的式」や「百々手式」といった儀礼的な射礼は、単なる武技の披露にとどまらず、神仏への奉納や軍勢の結束を示す役割を持っていました。
こうした場では、華やかな的や装飾が用いられることも多く、観衆の前で技を見せることが重視されていました。
この点から見れば、屋島での扇の的も単なる戦術上の一幕ではなく、武士の文化に深く根ざした「儀礼的な試合」としての性格を帯びていた可能性があります。
つまり、実際の戦闘の合間に設けられた「公開試合」のような要素があり、それが軍記物語の中で象徴的に描かれたとも考えられるのです。