歴史の授業やテレビドラマなどで「長篠の戦いで織田信長が鉄砲の三段撃ちを行った」という話を耳にしたことがある方は多いのではないでしょうか。
これは戦国時代を代表するエピソードとして広く知られています。
しかし近年の歴史研究では、この三段撃ちが実際に行われたという証拠はなく、むしろ後世に作られた物語である可能性が高いとされています。
では、なぜそのような話が広まり、今でも多くの人が信じているのでしょうか。
三段撃ちの真偽やその背景、そして長篠の戦いの本当の意味について分かりやすく解説していきます。
長篠の戦いと“三段撃ち”のイメージ
日本史の定番エピソードとしての“三段撃ち”
長篠の戦いは、1575年に愛知県新城市付近で行われた戦いです。織田信長・徳川家康の連合軍と、甲斐の武田勝頼軍が激突したことで知られています。
この戦いのエピソードとして有名なのが「鉄砲の三段撃ち」です。織田軍が3列に並んで交互に鉄砲を撃ち続け、武田軍の騎馬隊を一掃したという劇的な場面は、多くの人の記憶に残っています。
この三段撃ちは、まるで近代的な銃隊のような印象を与え、信長の先進的な戦術を象徴する出来事として語られてきました。そのため、歴史の教科書やドラマ、さらには観光地の解説などでも繰り返し登場し、定番のストーリーとして定着してきたのです。
教科書やドラマが作り上げたイメージ
昭和の時代まで、多くの歴史教科書では「長篠の戦い=三段撃ち」として紹介されていました。また、大河ドラマや映画などの歴史作品でもこの場面はしばしば描かれ、視覚的にも強い印象を与えています。
こうした描写は、信長の革新性や時代を先取りしたイメージを強調するために用いられ、長い時間をかけて私たちの常識となっていきました。
しかし、本当に当時の織田軍がそんな高度な射撃方法を用いていたのでしょうか。次の章では、史実を踏まえて三段撃ちの真偽について考えていきます。
史実を検証する ― 三段撃ちの真偽
同時代史料には記録がない
三段撃ちが行われたかどうかを調べるために最も重要なのは、当時の一次資料です。
ところが、長篠の戦いに関する記録である『信長公記(しんちょうこうき)』などの同時代史料には、三段撃ちを行ったという記述は一切ありません。後世の軍記物や物語では描かれるものの、当時の記録にないという点は大きな疑問を投げかけています。
歴史学において、後世に書かれた物語は脚色されている可能性が高く、事実と区別して考える必要があります。そのため、三段撃ちの存在は信頼性のある史料からは裏付けられていないのです。
鉄砲の性能と装填速度の現実
三段撃ちが疑われるもう一つの理由は、鉄砲そのものの性能です。当時の火縄銃は装填に時間がかかり、早くても一分近く必要でした。
仮に三列に分けて撃ったとしても、連続的に絶え間なく弾を撃ち続けることは難しかったと考えられます。
さらに火縄銃は雨や湿気に弱く、発射率は安定していませんでした。そのため、劇的に「一斉射撃で武田軍を壊滅させた」というイメージは現実離れしていると言えるでしょう。
実際に行われた戦術とは?
では織田軍はどのように戦ったのでしょうか。研究者の多くは「三段撃ちではなく、柵を設けて鉄砲を効率的に使った」と考えています。
織田軍は木や竹で作った頑丈な柵をいくつも設置し、その背後から鉄砲を撃ちました。これにより、武田軍の騎馬隊は突撃しても柵を突破できず、次々に銃弾の的となったのです。
つまり、信長の革新性は三段撃ちではなく、鉄砲を大量に配備し、柵や兵の配置を工夫して戦術に組み込んだ点にあったと考えられます。
“三段撃ち神話”が広まった背景
江戸時代以降の軍記物の影響
三段撃ちの話が広まった大きな要因の一つが、江戸時代に書かれた軍記物です。『信長記』や『甲陽軍鑑』といった書物は、戦国時代の戦いを分かりやすく劇的にして伝えています。
これらは娯楽としての要素も強く、読者を引きつけるために脚色が施されました。その中で、信長の戦術をより劇的に見せるために「三段撃ち」という分かりやすいエピソードが描かれたのです。
軍記物は史実の記録というよりも読み物であり、正確さよりも面白さが優先されました。そのため、後世の人々はあたかも事実のように受け止めてしまったのです。
明治以降の教育とナショナリズム
三段撃ちの伝説がさらに強固になったのは、明治時代以降の近代教育の影響です。
当時の日本は西洋列強に追いつこうとする中で、自国の歴史においても「先進性」や「合理性」を強調する必要がありました。
そこで「信長はすでに近代的な戦術を用いていた」という物語は非常に都合がよかったのです。三段撃ちは、まるで西洋の近代軍隊の戦術を先取りしたように見えるため、日本の歴史を誇らしく示す材料として活用されました。
戦後の歴史教育・大衆文化での定着
戦後になると、歴史教育や大衆文化の中で三段撃ちのイメージはさらに広まりました。
教科書では「戦国時代の転換点」として三段撃ちが紹介され、映画やテレビドラマでは迫力ある戦闘シーンとして描かれました。特に大河ドラマの映像は人々の記憶に強く残り、視覚的な説得力を持って伝説を定着させたのです。
こうして三段撃ちは、学術的な根拠が乏しいにもかかわらず、日本史の定番エピソードとして語り継がれるようになりました。
長篠の戦いの本当の意味
織田・徳川連合軍の総合戦術
長篠の戦いの勝因を「三段撃ち」に求めるのは単純化しすぎです。
実際には、織田信長と徳川家康の連合軍は周到に準備を整え、鉄砲だけでなく兵力配置や防御施設を組み合わせた総合戦術を展開しました。
柵を設置し、その背後から鉄砲を撃ち込む戦法は、数の優位と防御力を最大限に活かした合理的な戦い方だったのです。
また、鉄砲隊だけでなく弓矢や槍の兵も配置されており、全体の調和によって武田軍を押し返すことができました。
つまり勝敗を分けたのは「一つの奇策」ではなく、全軍を統率する組織力と計画性だったといえます。
騎馬武者に対抗するための柵や陣形
武田軍といえば、当時最強と恐れられた騎馬隊が有名です。
騎馬武者の突撃は恐るべき破壊力を持っていましたが、柵の前ではその勢いを十分に発揮できません。織田軍はこれを見越して柵を複数設け、突撃の衝撃を吸収しました。
さらに、鉄砲隊が柵の後方から発砲することで、突撃してきた武田軍は次々と倒れていきました。陣形そのものが「騎馬隊対策」として機能していたのです。
戦国時代における軍事技術の転換点
長篠の戦いが持つ本当の意味は、鉄砲の活用を中心とした戦術の転換にあります。
日本に鉄砲が伝来してからわずか30年ほどで、信長はそれを戦術に組み込み、大量運用を実現しました。この発想の転換こそが画期的だったのです。
武田軍のような伝統的な騎馬突撃戦法は、鉄砲と柵を組み合わせた防御的な戦術に太刀打ちできませんでした。長篠の戦いは、戦国時代が「武勇の時代」から「組織と技術の時代」へ移り変わる象徴的な出来事だったといえるでしょう。
現代における“三段撃ち”伝説の再考
歴史研究の成果と一般的認識のギャップ
近年の研究では、三段撃ちが行われたという証拠はなく、戦術の中心は柵と大量の鉄砲による防御であったことが明らかになってきました。
しかし、一般的な認識では依然として「信長=三段撃ち」というイメージが強く残っています。これは、学問の成果が大衆文化や教育の場に十分に浸透していないことを示しています。
このギャップは、歴史を学ぶうえでの一つの課題でもあります。正しい情報を広めることは大切ですが、一方で多くの人に親しまれてきた物語を完全に否定することは難しい面もあります。
誤解から学べる歴史の面白さ
三段撃ちが事実ではなかったとしても、それをきっかけに歴史に関心を持つ人が増えたという点は無視できません。誤解や神話も、学ぶ入口としては大きな役割を果たしています。
そのうえで「実際はどうだったのか」と調べていく過程にこそ、歴史を学ぶ楽しさがあります。
つまり三段撃ちは、嘘であると同時に、人々を歴史に引き込む物語でもあったといえるのです。
「神話」としての三段撃ちをどう扱うべきか
現代において三段撃ちは、史実というより「神話」として位置づけるのが適切でしょう。事実ではないけれど、長篠の戦いを象徴するエピソードとして人々に親しまれてきたのです。
私たちはそれを完全に排除するのではなく、「実際の戦術は違ったが、こうした物語がどうして生まれたのか」という視点で捉えることが大切です。
神話を歴史から切り離すのではなく、歴史の一部として理解することが、より深い学びにつながります。