戦国時代といえば織田信長や豊臣秀吉といった名だたる英雄が思い浮かびますが、彼らの道のりは常に順風満帆だったわけではありません。
特に信長が畿内へ進出した際には、その支配に強く抵抗した勢力が存在しました。その代表格が「三好三人衆」と呼ばれる武将たちです。
三好三人衆とは、三好長逸・三好宗渭・岩成友通の三人を指し、かつて畿内に絶大な影響力を誇った三好長慶の死後、その後継として権力を握った人々でした。
三人はいずれも三好一族やその家臣団の有力者であり、単独では突出した大名に匹敵するほどの力を持っていたわけではありませんが、連携することで政治・軍事に大きな影響を与えました。
彼らは協力して畿内を支配しようと試み、やがて織田信長との大きな抗争へと発展していきます。
この記事では、三好三人衆がどのような背景で誕生し、どのようにして信長と争ったのかを順を追って解説していきます。
戦国時代の畿内をめぐる勢力争いを知るうえで欠かせない存在である三好三人衆。その実像をわかりやすくひも解いていきましょう。
時代背景
戦国時代の畿内情勢
三好三人衆が活躍したのは、戦国時代の中でも特に混乱の激しい時期でした。
室町幕府は将軍の権威を失い、京都を中心とする畿内の政治は大名や有力武将によって左右される状況にありました。将軍の命令が全国に浸透することはなく、むしろ各地の大名がそれぞれの力を拡大するために動いていたのです。
その中で台頭したのが三好長慶でした。長慶は阿波(現在の徳島県)出身の三好氏の当主で、やがて細川家の内紛に介入し、畿内の実権を握るようになりました。
長慶は将軍足利義輝を事実上の傀儡とし、自らが畿内の支配者として振る舞いました。このため、一時的に「天下人」と呼ばれるほどの権勢を誇りました。
長慶死後の権力構造
しかし、永禄七年(1564年)に三好長慶が没すると、その後継をめぐって三好家中は大きく揺らぎます。
長慶の嫡子である義興は若くして病没し、弟の実休や安宅冬康なども相次いで没したことで、三好家の本流は弱体化しました。この権力の空白を埋めたのが、三好長逸・三好宗渭・岩成友通の三人です。
彼らは三好一族の有力武将であり、長慶時代に培った勢力を背景に、家中の実権を握るようになりました。こうして三好三人衆が誕生し、畿内の政治に大きな影響を及ぼすこととなったのです。
三好三人衆の人物像
三好長逸
三好長逸は三好家の一門で、長慶の時代から重きをなしていた人物です。彼は三好氏の中でも政治的手腕に優れており、家中のまとめ役としての役割を果たしました。
長慶の死後、他の有力者が次々と没した中で、長逸は家の存続を守るために宗渭や友通とともに動き出しました。
長逸は軍事的な武勇よりも、むしろ調整役としての色が濃く、三好家中の分裂を抑えようと尽力しました。
しかし、時代が織田信長のような強力な新勢力を必要とする方向に進むなか、調整力だけでは勢力を維持しきれない面もありました。
三好宗渭
三好宗渭は三好氏の中でもやや出自が詳しく伝わりにくい人物ですが、長慶の代から家中において重要な役割を担っていました。
宗渭は比較的柔軟に立ち回ることができたとされ、外交的な活動にも関与したと考えられています。
宗渭は三好家の力を背景に畿内での発言力を強めましたが、決して独立した大名としての地位に上り詰めたわけではなく、三人衆の一角として存在感を発揮しました。
そのため、後世に残る記録も少なめで、個人よりも「三人衆の一人」という形で記憶されることが多い人物です。
岩成友通
岩成友通は三好三人衆の中で特に軍事面での活躍が目立つ人物です。
戦闘において実際に軍を率いることが多く、畿内各地の戦で名を馳せました。岩成氏は三好氏と関係の深い家系であり、友通自身も長慶の時代から武力を背景に台頭していきました。
その勇猛さは高く評価されましたが、織田信長という圧倒的な新勢力に対しては抗しきれず、最終的には敗北を重ねることになっていきます。
軍事的な才覚があったからこそ三人衆の一角を占めることができた人物といえるでしょう。
主な活動と動向
松永久秀との対立
三好三人衆の活動を語る上で欠かせないのが、松永久秀との関係です。
松永久秀は三好長慶に仕え、軍事・政治両面で大きな力を発揮した人物でした。しかし、長慶の死後、久秀は独自の勢力拡大を進め、三好三人衆とは対立関係に入ります。
特に、将軍足利義輝や義昭をめぐる動きでは、松永久秀と三好三人衆の思惑がしばしば衝突しました。
久秀は将軍を利用して自らの勢力基盤を固めようとし、三好三人衆もまた畿内の支配権を維持するために行動しました。
この結果、畿内は二つの有力勢力の対立によってさらに混迷を深めることになったのです。
織田信長との抗争
義昭を奉じた信長の上洛
永禄十一年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛しました。義昭は室町幕府再興を目指し、信長を頼って京都に戻ったのです。
この動きは、すでに畿内に根を張っていた三好三人衆にとって大きな脅威でした。彼らは従来、将軍家を利用して自らの勢力を維持してきたため、義昭が信長の庇護下に入ることは自分たちの立場を揺るがす要因となりました。
将軍をめぐる主導権争い
三好三人衆は義昭を味方につけ、信長に対抗することを狙いました。しかし、義昭は当初こそ彼らとも距離を保ちながら動きましたが、最終的には信長の強大な軍事力を頼るしかありませんでした。
そのため、三人衆と信長の対立は避けられず、畿内の主導権をめぐる争いは一層激化していきました。
畿内各地での戦闘
三好三人衆は摂津・河内を中心に信長軍と衝突しました。岩成友通が軍を率いて奮戦するなど、一定の抵抗を見せましたが、織田軍の兵力と統率力には及びませんでした。
特に信長は、各地の有力大名との同盟を背景に後方支援を得ており、三人衆の戦力は次第に押し込まれていきました。
三好三人衆の終焉
失脚の過程
信長が畿内を支配する流れの中で、三好三人衆の立場は急速に弱まっていきました。
各地で信長軍に敗北を重ね、支配地域を次々と失っていったのです。さらに、三人衆内部でも利害の不一致や求心力の低下が生じ、当初の結束が揺らぎました。
信長は戦いのたびに三人衆の拠点を攻略し、やがて彼らを畿内からほぼ一掃することに成功します。
三好長逸や三好宗渭は信長との戦いの中で失脚し、岩成友通もまた抵抗を続けましたが討ち死にすることになりました。
歴史的評価
三好三人衆は、戦国時代の権力の空白を埋めるべく登場した存在でした。
彼らは三好長慶の遺産を引き継ぎ、畿内において一定の影響力を保ちましたが、織田信長という時代の変革者を前に抗しきれず、歴史の舞台から退場しました。
評価としては、彼ら個々の力量が突出していたわけではなく、むしろ三人が連携することで力を発揮した点に特徴があります。
統率や求心力に欠け、やがて大きなうねりに飲み込まれていった姿は、戦国時代における群雄割拠の儚さを示しているといえるでしょう。