【公暁の謎】僧侶でありながら将軍・源実朝を討った男の真実

鎌倉時代初期、日本の武家政権である鎌倉幕府は成立からまだ数十年しか経っていませんでした。

その中で、源氏将軍家を揺るがす大事件が起こります。三代将軍・源実朝が、鶴岡八幡宮で甥の公暁によって暗殺されたのです。

この事件は単なる親族間の争いにとどまらず、幕府の将軍家の運命を大きく変えるものでした。

公暁は僧侶でありながら、なぜ刀を取って、実朝を討つに至ったのでしょうか。

公暁の生涯と暗殺事件の経緯、そしてその背後にある動機や影響を整理し、謎めいた人物像に迫ります。

公暁とは誰か

出自と家系 ― 源頼家の子として

公暁は鎌倉幕府二代将軍・源頼家の子として生まれました。

頼家は源頼朝と北条政子の長男であり、鎌倉幕府を率いる立場にありましたが、若くして失脚し、非業の死を遂げます。その子である公暁は、幼い頃から父を失った存在でした。

血筋からすれば、将軍となる可能性を持つ人物であり、源氏将軍家の一員として期待もされていたはずです。

しかし、実際には彼の運命は大きく変わります。父頼家の死後、公暁は政治の渦から遠ざけられるようにして出家し、僧侶の道を歩むことになりました。

これは表向きには出家という尊い選択でしたが、実際には幕府内の権力争いの中で、将軍候補から外されたという側面がありました。

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幼少期から僧侶となるまで

公暁は幼くして鶴岡八幡宮に入り、仏門に身を置きます。

鎌倉の象徴的な神社で育ったことは、彼に大きな影響を与えました。

とはいえ、僧侶である一方で、彼の出自が源頼朝の孫であることは周囲も意識せざるを得ず、単なる僧ではなく「将軍家の血筋を持つ僧」という特別な存在でした。

この立場は、公暁の心に複雑な思いを抱かせたと考えられます。

僧侶として静かに修行する道を選ばされながらも、武士としての誇りや源氏の血を意識せずにはいられなかったでしょう。

その矛盾は、後の行動につながる背景の一つと見ることができます。

実朝暗殺に至る背景

源氏将軍家の相続問題

鎌倉幕府において、将軍職は源氏の血筋によって継承されてきました。

初代は源頼朝、二代目はその長男の源頼家、そして三代目は次男の源実朝です。しかし、頼家は北条氏の政治的な判断によって失脚し、最終的に殺害されてしまいました。

この結果、源氏の血を引く直系は少なくなり、実朝一人に将軍家の存続が託される状況となります。つまり、源氏将軍家の未来が極めて脆弱なものとなっていたのです。

公暁の立場と不満

そんな中で、公暁は自らが将軍の子であり、源氏直系の後継候補であることを意識していたと考えられます。

しかし、幕府の実権を握っていたのは北条氏であり、公暁はあくまで僧侶の立場に押し込められました。

源氏の血筋を誇りとする者にとって、自分が排除されている現実は強い不満や憤りを生んだでしょう。

公暁が後に実朝を討つ動機には、こうした立場の不遇さが深く関わっていると考えられています。

北条氏との権力関係

鎌倉幕府を支えたのは北条氏でした。

北条政子が尼将軍として幕府を統率し、弟の北条義時らが実務を担うことで、源氏将軍は次第に形式的な存在となっていきます。

実朝もまた政治の実権をほとんど持たず、北条氏の支配下にありました。

この状況は、公暁にとっては二重の不満を意味しました。自らが将軍の座を奪われただけでなく、その将軍である実朝もまた北条氏の傀儡に近い存在だったからです。

結果的に、公暁は将軍暗殺という過激な行動に踏み切る下地を作っていったと考えられます。

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鶴岡八幡宮での暗殺事件

事件の経緯 ― 建保七年正月の出来事

1219年(建保七年)正月、鶴岡八幡宮で盛大な儀式が行われました。

源実朝が右大臣に任じられ、その祝賀のために社殿に参拝したのです。この日、公暁は八幡宮に潜み、実朝の出現を待っていました。

実朝暗殺の手口とその瞬間

夜、参拝を終えて下ろうとする実朝を、公暁は突然襲撃します。

雪の中での出来事だったと伝わり、刀を振るった公暁によって実朝は即死しました。この一撃は、鎌倉幕府にとって取り返しのつかない打撃でした。

なぜなら、これによって源氏の将軍家は完全に断絶することになったからです。

公暁の逃走と最期

暗殺を成し遂げた公暁は、その後自らが将軍になることを望んだとも伝えられています。

しかし、北条氏を中心とした幕府の武士たちは彼を支持せず、むしろ追討の対象としました。公暁は逃走しましたが、最終的には討たれて命を落とします。

将軍を討った僧侶の最期はあまりに短く、そして孤独なものでした。

公暁の動機をめぐる諸説

将軍継承をめぐる野心説

最も広く知られているのは、公暁が自ら将軍となることを望んでいたという説です。

父頼家は本来ならば幕府を継ぐべき存在でしたが、北条氏の策略によってその道を断たれました。

公暁にとって、自分が将軍となることは父の正統性を取り戻す行為であり、同時に源氏の血筋を再び権力の座に据えることでもあったと考えられます。

実朝を討った後、彼が将軍職に就こうとしたと伝わることからも、この説には一定の説得力があります。

個人的な恨みに基づく説

もう一つの見方は、純粋に恨みによる行動だったというものです。

父頼家は若くして殺されましたが、その死には北条氏や幕府内部の思惑が絡んでいました。

実朝自身が直接の加害者であったわけではないにせよ、公暁にとっては「父を奪われ、自らも将軍の座を奪われた」という思いが強かったのかもしれません。

この観点では、公暁の行為は冷静な政治的判断ではなく、復讐心や憎悪に突き動かされたものとされます。

背後勢力の関与を疑う説

一方で、公暁単独の決断ではなく、背後に何らかの勢力がいたのではないかという説も存在します。

とりわけ注目されるのは、北条氏が実朝の暗殺に消極的にせよ関与していた可能性です。なぜなら、実朝の死によって源氏将軍は絶え、結果的に北条氏の権力はさらに強固なものとなったからです。

ただし、史料によっては公暁の単独犯行として記されることも多く、背後関与説については決定的な証拠が残っていません。このため、歴史家の間でも議論が続いているのが現状です。

公暁事件がもたらした影響

源氏将軍断絶の決定的要因

実朝の死は、源氏将軍家の終焉を意味しました。

頼朝から続いた直系の血筋は途絶え、以後の将軍は京都から迎える形となります。

幕府にとっては大きな転換点であり、公暁の行為は日本史において極めて重大な意味を持つ事件でした。

北条氏による幕府支配の強化

源氏将軍の断絶後、幕府の実権は完全に北条氏の手に移ります。

以後、北条氏は執権として幕府を支配し、長く続く「北条得宗家の時代」を築き上げました。

公暁の行為は、皮肉にも北条氏の権力基盤を盤石なものにする結果となったのです。

追記:雪に包まれた夜の暗殺劇

実朝暗殺が行われた1219年正月27日は、雪が降り積もる夜だったと伝えられています。

鎌倉の冬は冷え込みが厳しく、参列者の足跡すら雪に埋もれたことでしょう。その中で、鶴岡八幡宮の石段を下りる実朝を待ち構えていたのが公暁でした。

この雪の描写は、事件を伝える史料にもしばしば登場し、のちの文学や絵画においても「雪の暗殺」として強く印象付けられています。

単なる天候の記録にとどまらず、事件の劇的な雰囲気を後世に伝える要素となったのです。

また、公暁は暗殺後に源仲章(実朝の側近であり、朝廷とのつながりを持つ人物)も討ったと伝わります。

これは単なる偶然ではなく、公暁が幕府と朝廷の結びつきを断ち切ろうとした可能性を示唆します。

つまり、公暁の行動には将軍暗殺だけでなく、鎌倉と京都を結ぶ政治的ネットワークへの打撃という側面もあったのです。

そしてもう一つ興味深いのは、公暁が討たれた後、その首がどのように扱われたのかについても史料が分かれ、はっきりしない点です。

鎌倉武士の間では、反逆者や大罪人の末路として首の行方が重視されましたが、公暁については明確な記録が乏しく、事件そのものが一層謎めいた印象を残しています。