勤王派とは?「勤王」と「尊王」の違いを含めて説明

江戸時代の末期、天皇を中心とする国家体制を求め、幕府に批判的な姿勢をとった人々がいました。

彼らは「勤王派」と呼ばれ、尊王や攘夷といった思想を掲げながら、さまざまな活動を展開しました。

本記事では、勤王派の思想や行動を整理し、幕末から明治維新へと至る流れのなかで果たした役割を分かりやすく解説していきます。

また、混同されがちな「勤王」と「尊王」という言葉の意味の違いについても、説明します。

勤王派とは何か

勤王派の基本的な立場

勤王派とは、幕末の日本で天皇への忠誠を重んじ、その権威を回復しようと活動した人々を指します。

江戸時代の政治は、形式上は朝廷と幕府の二本立てでしたが、実際には幕府が政治の実権を握っていました。そのなかで、朝廷の権威を中心に据え直し、天皇を尊び、国を導くべきだと考えたのが勤王派です。

彼らは、幕府を支える佐幕派や、朝廷と幕府の協調をめざした公武合体派とは異なる立場を取りました。

勤王派が生まれた歴史的背景

勤王派が大きな存在感を持つようになった背景には、いくつかの要因があります。

第一に、幕府の政治力の衰退です。江戸時代後期には財政難や内政の混乱が深刻化し、幕府の統治能力に疑問が持たれるようになりました。

第二に、外国からの圧力が強まったことが挙げられます。黒船来航以降、日本は開国か攘夷かという難しい選択を迫られ、幕府の対応に不満を持つ人々が増えました。

こうしたなかで、国の中心を幕府から天皇に移すべきだとする勤王思想が広がったのです。

主な思想やスローガン

勤王派の活動を支えたのは、尊王攘夷というスローガンでした。

尊王は天皇を尊ぶという考え、攘夷は外国勢力を排除するという考えです。特に幕末の動乱期には、この二つが結びついて勤王派の大きな旗印となりました。

後には必ずしも攘夷を実行できない状況になりましたが、天皇を中心とした国家を築くべきだという信念は維持され、やがて討幕運動へと発展していきました。

「勤王」と「尊王」の違い

「尊王」の意味と起源

尊王とは、天皇を尊び、その地位や権威を重視するという考え方です。

これは古代から存在し、律令制度のもとでは天皇は国家の中心にありました。しかし、武家政権の成立以降、天皇は形式的な存在となり、実際の政治権力は武士が担うようになります。

そのなかで、天皇の権威を再び重視すべきだという思想として尊王が注目されるようになりました。

「勤王」の意味と変遷

勤王とは、文字通り「王に勤める」、つまり天皇のために尽くすという意味を持ちます。

尊王が思想的・観念的な意味合いを強く持つのに対し、勤王はより実践的で行動的な性格を帯びています。

幕末の人々が「勤王派」と呼ばれたのは、単に天皇を尊ぶだけでなく、そのために積極的に政治や社会の変革に関わろうとしたからです。

勤王は単なる思想にとどまらず、現実の政治運動と結びついていきました。

両者の概念的な違いと使われ方

尊王と勤王はしばしば混同されがちですが、両者には明確な違いがあります。

尊王は思想や理念を指し、勤王は行動や運動を意味することが多いのです。例えば、尊王の心を持つ人はいても、それが行動に移されなければ勤王派とは呼ばれません。

幕末の動乱期には、多くの尊王思想を持つ知識人や公家が存在しましたが、そのなかでも実際に討幕運動や攘夷運動に参加した人々こそが勤王派とされました。

勤王派の活動と影響

幕末における具体的な行動

勤王派の人々は、幕末の動乱期にさまざまな形で行動しました。その代表的なものが攘夷運動です。外国勢力を排除すべきだとする彼らは、開国政策を進める幕府に強く反発しました。

各地で外国人襲撃や通商反対の運動が起こり、尊王攘夷の熱気が広がりました。やがて幕府に対する不信は頂点に達し、討幕運動へと発展していきます。

とりわけ長州藩や薩摩藩の若い志士たちは、勤王の旗印を掲げ、討幕のための準備や活動を進めました。

勤王派を代表する人物とその役割

勤王派の代表的な人物には、吉田松陰や久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎などがいます。

吉田松陰は尊王攘夷の理論的支柱となり、多くの門弟を育てました。高杉晋作は行動力に優れ、奇兵隊を組織して幕府に対抗しました。

桂小五郎(のちの木戸孝允)は政治的な調整力を発揮し、薩摩藩との同盟を成立させ、討幕への道筋をつけました。

これらの人物たちはそれぞれの立場で勤王思想を実践し、明治維新へつながる大きな役割を果たしました。

勤王派と他の政治勢力との関係

勤王派は単独で存在したわけではなく、他の政治勢力と対立や協調を繰り返しました。

佐幕派は幕府を支えようとしましたが、勤王派とは根本的に方向性が異なっていました。また、公武合体派は朝廷と幕府の両立を模索しましたが、勤王派は幕府の存在自体に批判的だったため、協力は難しいものでした。

しかし、時代の変化とともに、討幕をめざす勢力が結集し、勤王派の思想が大きな力を持つようになっていきました。

勤王派思想の展開

王政復古と明治維新へのつながり

勤王派の思想は、最終的に王政復古の大号令へと結実しました。これは幕府の政権を朝廷に返還し、天皇を中心とした新しい政治体制を築くというものです。

長州藩や薩摩藩を中心に結成された討幕勢力は、戊辰戦争を経て幕府を倒し、明治政府を樹立しました。勤王思想は、単なる理念にとどまらず、近代国家への道を切り開く実際の原動力となったのです。

勤王派の思想が果たした役割の総括

勤王派の思想は、日本の歴史に大きな影響を与えました。それは単なる幕府への反発ではなく、国の在り方を根本から問い直すものでした。

天皇を中心に据えるという考え方は、新しい政治体制の正統性を支える基盤となりました。一方で、攘夷を掲げながらも近代化を進めざるを得なかったという矛盾も抱えていました。

しかし、勤王派の行動と思想がなければ、明治維新という大きな変革は実現しなかったといえます。

勤王派の歴史的意義

幕末の勤王派は、単に政治体制の変革を推し進めた存在であるだけではありません。

彼らの活動は、各地の藩士や浪士、さらには農民や町人といった幅広い層にまで思想を広げ、社会全体に新しい時代を待ち望む空気を作り出しました。

藩という枠を超え、さまざまな地域や身分の人々を結びつけた点においても、勤王派は従来の政治勢力とは異なる性格を持っていました。こうした草の根の広がりが、大きな歴史的変化を下支えしたのです。

勤王派の存在は、歴史の転換期において思想と行動が結びつくことの力強さを示す一例といえるでしょう。