遣唐使を廃止した理由とメリット、平安文化へつながる歴史の分岐点

遣唐使(けんとうし)は、7世紀から9世紀にかけて日本から唐へ派遣された外交・文化交流の使節団です。中国大陸から進んだ制度や文化を学び取り、日本に導入することを目的として派遣されました。遣隋使に始まり、律令制度や仏教、建築技術、書物など、さまざまな知識が日本にもたらされたことは歴史的にも大きな意義があります。

しかし、9世紀後半になると日本は遣唐使を廃止する決断を下します。それは単に国際交流をやめたという消極的な判断ではなく、国内の状況や国際関係の変化を踏まえた積極的な選択でもありました。

本記事では、遣唐使が廃止された理由と、それによって得られたメリットを解説します。

遣唐使廃止の背景と理由

政治的理由

遣唐使を廃止する大きな背景には、唐王朝の衰退がありました。9世紀に入ると唐は度重なる内乱に見舞われ、とりわけ安史の乱(755年〜763年)の影響は深刻でした。この戦乱によって唐の国力は大きく消耗し、以降は中央集権的な統治が維持できなくなります。地方では節度使と呼ばれる軍閥が実権を握り、事実上の分裂状態に陥りました。

日本から見れば、かつては「最新の制度や文化を学ぶべき手本」として尊敬されていた唐が、もはや安定した大国ではなくなったことを意味します。唐の政情が不安定になると、遣唐使を派遣しても得られるものが少なくなり、むしろ外交的リスクを抱え込む懸念が強まります。こうした国際環境の変化を背景に、「唐への依存を続けるより、自国の政治を安定させて独自の道を模索すべきだ」という考え方が日本国内で強まっていったのです。

経済的理由

遣唐使の派遣には膨大な費用が必要でした。数百人規模の使節団を送り出すためには、複数の大型船を新造・整備し、長期航海に耐えられるだけの食糧や水、物資を積み込む必要があります。また、唐の都・長安に到着した後も、現地での滞在費や贈答品などの出費がかさみました。こうした支出は、国家財政にとって大きな負担でした。

さらに、航海には常に遭難や漂流の危険が伴いました。実際、派遣された使節の中には半数以上が帰国できなかった例もあり、人員の損失は無視できないものでした。金銭的な損害だけでなく、優秀な人材を失うことは国家運営にとっても大きな痛手です。

一方で、9世紀の日本は国内の開発や防衛体制の整備といった課題に直面していました。財源を限られた中で効率的に活用する必要がある以上、遣唐使を続けることは費用対効果の面でも割に合わなくなっていったのです。

文化的理由

日本はすでに長年にわたって唐文化を取り入れ、それを自国の制度や文化に融合させていました。律令制度や仏教思想、儒教的な統治理念、さらには漢字を用いた文書行政など、唐からの影響は日本社会の基盤そのものを形作っていました。

しかし、9世紀を迎える頃には、日本は唐から学ぶべき基礎的な知識をほとんど吸収し終えていました。むしろ、「唐を模倣する段階」から「日本独自の文化を創造する段階」へと移行しつつあったのです。たとえば、漢字を簡略化して生まれたひらがなやカタカナの普及、和歌や物語文学の発展、そして自然や日本人の美意識を反映した和様建築の登場などは、国風文化と呼ばれる日本固有の文化の成熟を示しています。

遣唐使を廃止することは、外来文化の導入を一旦終え、自国文化の自立と発展に力を注ぐ流れに合致した決断でした。

地理的・技術的理由

遣唐使の航路は非常に危険でした。日本から唐へ向かうには、荒波が立ちやすい東シナ海を横断しなければならず、たびたび船団が嵐に遭遇して遭難しました。歴史には、数百人規模の死者を出した悲劇的な航海の記録も残っています。

当時の造船技術や航海術では、この自然条件を完全に克服することは困難でした。船の構造はまだ外洋航海に十分耐えるものではなく、羅針盤などの正確な航海器具も存在しませんでした。そのため、航海の成功は天候や運に大きく左右され、常に人命と莫大な資源を危険にさらすものでした。

こうした技術的・地理的な限界も、遣唐使を続けることのリスクを高め、廃止を正当化する大きな要因となったのです。

遣唐使廃止によるメリット

政治面でのメリット

遣唐使を廃止したことにより、日本は外交において自国の判断を優先させるようになりました。従来、日本の外交や制度改革は「唐を手本にする」という方針の下で進められてきました。しかし、唐の衰退とともに「一方的に学ぶ対象」としての価値が低下し、廃止後は「自国にふさわしい外交や政治制度をどう構築するか」を主体的に考える必要が生まれました。

これにより、日本は「模倣の段階」から「選択と独自性の段階」へ移行します。たとえば、外交政策では唐に従属するのではなく、周辺国との関係を独自に構築する姿勢が見られるようになりました。新羅や渤海といった東アジアの国々に対しても、唐を介さず日本の立場を直接示し、主体的な関係調整を行う動きが強まったのです。

こうした変化は、日本が「東アジア世界の一員として唐に追随する存在」から、「独立した外交主体」として認められる契機となりました。長期的には、この経験が後の平安時代の国際関係や、国家意識の成熟につながっていきます。

経済面でのメリット

遣唐使を継続するには、多大な国家予算が必要でした。数百人規模の使節団を唐の都・長安まで送り出すには船の建造・補修、航海に必要な食糧や物資の準備、現地での滞在費、さらには外交儀礼に用いる贈り物などが不可欠でした。これらの費用は、当時の国家財政にとって非常に大きな負担でした。

廃止によってこうした出費がなくなり、財政的な余裕が生まれました。その結果、国内の課題に資金を振り向けることが可能になりました。たとえば、地方の道路や水路の整備、農村の開発、防衛体制の強化など、直接的に国民の生活や国家の安定に資する分野へ投資できるようになったのです。

また、海外派遣に伴う人材や資源の消耗を抑えることもできました。人命の損失や財の浪費を避けることは、国家全体の経済的安定を守るうえで大きな意味を持っていたといえるでしょう。

文化面でのメリット

遣唐使を廃止したことは、日本文化の独自性を育む大きな転換点となりました。唐文化の影響を受け続けるのではなく、それを土台にしながら自国の美意識や生活に合った文化を発展させていく方向へとシフトしたのです。

代表的な成果の一つが「かな文字」の普及です。ひらがなやカタカナが使われるようになったことで、難解な漢文に頼らず、日本語の発音やリズムをそのまま表現できるようになりました。これにより、『古今和歌集』や『源氏物語』といった国文学が誕生し、日本独自の文芸世界が大きく開花しました。

また、建築や服飾の分野でも、唐の模倣から日本的アレンジが加えられるようになり、気候や風土に適した「和様」の様式が広がっていきました。こうした文化的成果は、遣唐使の廃止が「閉鎖」ではなく「自立への加速」であったことを物語っています。

社会・安全面でのメリット

遣唐使の航海は危険を伴い、多くの命が失われてきました。船が嵐にのまれたり、遠方に漂流して帰国できなくなる事例も少なくありませんでした。廃止によってこうした犠牲が回避され、社会に安心感をもたらしました。

さらに、海外派遣に動員されていた人材を国内に留められるようになったことも重要です。学者や僧侶、技術者といった知識層が国内に残り、その能力を日本の発展に役立てることができました。結果として、教育や宗教、地域開発といった分野に人材が投入され、国内社会の安定と発展に貢献したのです。

このように、遣唐使の廃止は「命を守り、人材を国内に還元する」という安全保障上の大きな意味を持ち、日本社会をより安定的に成長させる基盤となりました。

遣唐使の廃止は「後退」ではなく「前身」だった

遣唐使の廃止は、単に「交流をやめた」出来事ではなく、日本が自らの進むべき方向を見出した歴史的な転換点でした。

政治的には主体性を確立し、経済的には財政負担を軽減し、文化的には国風文化を成熟させ、社会的には安全と安定を手に入れることができました。つまり、遣唐使の廃止は「唐との関係を断つ消極的な決断」ではなく、「自立した国家と文化を築く積極的な選択」だったといえるでしょう。

この決断があったからこそ、日本は独自の文化的アイデンティティを形成し、やがて平安時代における華やかな国風文化の黄金期を迎えることができたのです。