日本の中世には、武家社会のあり方を定める重要な法令や規範がいくつか登場しました。その中でも「御成敗式目」と「建武式目」は、ともに政治を動かす基本方針として位置づけられるものです。
御成敗式目は鎌倉幕府が制定した武家法としてよく知られていますが、それに対して建武式目は、南北朝時代の始まりにあたる建武政権期に足利尊氏が制定した施政方針です。
両者は時代も目的も異なっており、比較することで建武式目の特徴がより鮮明に浮かび上がります。
この記事では、まず建武式目の概要を整理し、次に御成敗式目との違いを明らかにしたうえで、建武式目の持つ独自性について見ていきます。
歴史を学び始めた方でも理解できるよう、できるだけ平易な言葉で解説していきます。
建武式目とは何か
建武式目は、1336年に足利尊氏によって制定された政治方針です。鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が進めた建武の新政が行き詰まりを見せる中で、尊氏は武家政権の再建を目指しました。
その際に、どのような原則に基づいて政治を行うかを示す必要があり、その答えとして建武式目が示されました。
制定の背景(建武政権と南北朝時代の混乱)
鎌倉幕府が滅んだのち、後醍醐天皇は天皇親政を掲げて建武の新政を始めました。
しかし、武士たちの期待とは裏腹に、恩賞の分配や政治運営は必ずしも公平ではなく、多くの不満を生み出しました。
その結果、武士の支持は急速に失われ、建武の新政は混乱状態に陥りました。尊氏は当初、後醍醐天皇に協力していましたが、次第に対立するようになり、独自の武家政権を立てる方向へ動き出します。
このような時代状況の中で、新たな政治理念を打ち出す必要性が生じ、建武式目がまとめられました。
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足利尊氏による制定の意図
尊氏は、鎌倉幕府が長年築いた武家社会の仕組みを完全に捨て去ることはできませんでした。同時に、後醍醐天皇が掲げた理想を無視することも難しかったのです。
そのため、両者の要素を折衷しながら、新しい武家政権にふさわしい方針を打ち出すことを目指しました。
建武式目は、具体的な法律というよりも「政治を進めるための心がけ」を示した文書です。
そこには、仏教の尊重や質素倹約の推奨、正しい道徳に基づいた政治の必要性などが盛り込まれました。
この性格が、後に御成敗式目と大きな違いを生み出す要因となります。
御成敗式目の概要
御成敗式目は、1232年に鎌倉幕府の執権・北条泰時によって制定された法令です。
これは日本で最初の本格的な武家法典として知られており、武士社会における紛争解決や政治運営の基本的な指針を定めました。
鎌倉幕府は武士たちが築いた政権であり、従来の朝廷法(律令)だけでは武家社会に生じるさまざまな問題を処理することが難しくなっていました。
そのため、武士の価値観や実際の慣習に基づいた独自の法令が必要とされ、その答えが御成敗式目でした。
鎌倉幕府における制定目的
御成敗式目の目的は、幕府が統治を安定させるための「裁判基準」を明文化することにありました。
土地をめぐる争いや、武士同士の利害対立を解決するには、統一的なルールが欠かせませんでした。
この法典によって、裁判における不公平をなくし、幕府の権威を高めることが狙われました。また、御成敗式目は武士だけでなく、荘園領主や寺社との関係を整理するためにも役立ちました。
武家法としての基本的な性格
御成敗式目は全51条からなり、土地制度や相続、訴訟の手続きなど、非常に実務的な内容が中心です。
そこには武士の生活に直結する具体的な規範が記されており、武士社会に即した現実的な性格を持っていました。
また、御成敗式目は法典として体系的に整備されていたため、後世の武家政権にも影響を与えました。室町幕府や戦国大名の分国法なども、この流れを引き継いでいったと考えられています。
建武式目と御成敗式目の比較
建武式目と御成敗式目は、ともに時代を代表する重要な文書ですが、その性格や役割は大きく異なります。ここでは、いくつかの観点から両者を比較してみましょう。
制定主体と時代背景の違い
御成敗式目は、鎌倉幕府が政治を安定させるために制定した武家法典です。執権・北条泰時が中心となり、幕府の司法・行政を統一する役割を果たしました。
その背景には、幕府の支配体制が確立し、武士の秩序を固める必要があったという事情がありました。
一方、建武式目は、鎌倉幕府が滅んだ後の混乱期に足利尊氏が制定しました。新たな武家政権を築くための理念を示すことが目的であり、御成敗式目のような安定期における実務的な規範とは異なります。
つまり、御成敗式目が「成熟した幕府の統治手段」であったのに対し、建武式目は「混乱期における新政権の理念表明」といえます。
政治理念の差異(武家中心か、朝廷との調和か)
御成敗式目は、武士の利害や慣習を最優先にして作られた法典です。
土地や相続をめぐる争いの解決など、武家社会を安定させるための実務的な規範が中心でした。武士を主体とする社会秩序の確立こそがその目的でした。
対して建武式目は、尊氏が朝廷と武家の双方に配慮する姿勢を示した点に特徴があります。武士の利益だけでなく、朝廷や寺社への敬意を示す内容が含まれており、調和を重視していたことがうかがえます。
これは、後醍醐天皇の建武の新政を意識しつつも、武士の支持も得たいという尊氏の立場を反映しています。
法的性質の違い(法典か、施政方針か)
御成敗式目は、条文形式で明文化された法典でした。
土地制度や裁判の基準といった具体的な規則が盛り込まれ、実際に長期間にわたって幕府の統治に活用されました。
これに対して建武式目は、具体的な法規というよりも、政治を進めるうえでの心構えや理念を示す文書でした。
質素倹約を重んじること、仏教を尊重することなど、抽象的で道徳的な内容が多く、実際の政治を運営するための細かな規則は示されていませんでした。
したがって、御成敗式目が「実務的な法典」であったのに対し、建武式目は「理念的な施政方針」と位置づけられます。
建武式目の特徴
建武式目は、御成敗式目と比べると実務的な法典というよりも、政治の理念や道徳を前面に押し出した性格を持っていました。ここでは、その特徴をいくつかの観点から確認していきます。
道徳的・理念的な性格
建武式目は、具体的な法律を整備することよりも、為政者の姿勢や社会の在り方を示すことを目的としていました。
そこでは、為政者は正しい心を持ち、道徳に基づいて政治を行うべきであると強調されています。
そのため、条文形式で明確に規定された御成敗式目に比べ、抽象的で理念的な内容が中心でした。
これは、鎌倉幕府の安定した時代に生まれた御成敗式目と、混乱の中で理念を示す必要に迫られた建武式目との違いをよく表しています。
仏教・儒教的価値観の反映
建武式目には、宗教的・思想的な要素が色濃く表れています。
たとえば、寺社や仏事を重んじること、先人の教えを尊ぶことなどが記されています。これは、仏教や儒教の価値観を背景にした内容といえます。
また、政治においても質素倹約や勤勉さを推奨しており、為政者が贅沢に走らず、徳を持って国を治めるべきだという理念が示されています。
このように、宗教的・倫理的な考え方が強調されている点が建武式目の大きな特徴です。
実効性の限界と短命性
建武式目は理念的であったがゆえに、具体的な政治問題を解決するための実効性には乏しい面がありました。
土地問題や武士同士の紛争といった現実的な課題に対しては、御成敗式目のような実務的な規定がなかったため、直接的な役割を果たすことはできませんでした。
そのため、建武式目は長期的に使われることはなく、実際には短命に終わりました。
後に室町幕府が成立すると、御成敗式目が引き続き基準として参照されることになり、建武式目は歴史的には理念的文書としての意味合いにとどまりました。
まとめ:両者の比較から浮かび上がる建武式目の独自性
建武式目と御成敗式目は、どちらも中世日本の政治を理解するうえで重要な文書ですが、その性格や役割は大きく異なっていました。
御成敗式目は鎌倉幕府が安定した支配体制を築く中で制定され、武士社会を統治するための具体的で実務的な法典として機能しました。土地や相続など、武士の日常生活に直結する規定を整備し、幕府の裁判や行政の基本的な基準となりました。
一方、建武式目は鎌倉幕府滅亡後の混乱期に足利尊氏が示した施政方針であり、道徳的・理念的な性格を持っていました。仏教や儒教の価値観を取り入れ、質素倹約や正しい政治姿勢を強調しましたが、実務的な規定は乏しく、短命に終わったことも特徴です。
両者を比較することで見えてくるのは、御成敗式目が「武士社会を安定させるための実務的な法典」であったのに対し、建武式目は「新政権の理念を示すための施政方針」であったという点です。鎌倉時代と南北朝時代という異なる時代背景が、それぞれの文書の性格を決定づけたといえるでしょう。