勝海舟と坂本龍馬の関係!二人の出会いは幕末の奇跡だった

幕末という時代は、日本が大きく揺れ動いた激動の時期でした。

外国の船が日本の沿岸に姿を現し、江戸幕府は従来の鎖国体制を維持できなくなっていました。その中で「開国」か「攘夷」かという激しい議論が交わされ、国内は分裂しつつありました。

この混乱の中で登場したのが、幕府の中枢に仕えながらも開国と近代化を目指した勝海舟、そして土佐藩を脱藩し、新しい時代を切り拓こうとした坂本龍馬です。

二人は立場も出自もまったく異なりますが、運命的な出会いを果たしました。

勝は幕府に仕える立場にありながら、幕府の延命よりも日本全体の未来を重視しました。一方、龍馬は幕府の枠にとらわれず、自由に各藩や志士たちと関わりながら、新しい日本を構想しました。

両者の関係は単なる師弟関係にとどまらず、日本の近代化に向けて大きな影響を与える協力関係でもあったのです。

勝海舟の立場と思想

幕臣としての立場

勝海舟(本名:勝麟太郎)は江戸幕府に仕える武士でした。彼は西洋の軍事や航海技術に強い関心を持ち、幕府が設立した「長崎海軍伝習所」でオランダ人から本格的に学びました。

その後、自ら「神戸海軍操練所」を設立し、若者に西洋式の航海術や兵学を教えました。

幕臣である以上、勝は幕府の政策に従う立場でした。しかし同時に、彼は幕府という枠を超えて「日本」という国全体の存続を考えていました。

そのため、ただ幕府を守るための海軍ではなく、日本を近代国家として生き残らせるための力を育てようとしていたのです。

勝海舟の政治的ビジョン

勝海舟の思想を一言で表すなら「平和的な開国と近代化」です。

彼は攘夷(外国を排斥する思想)に反対し、むしろ西洋から学び、同じ土俵で渡り合える国力をつけることを重視しました。

また、彼の大きな特徴は「血を流さずに政権交代を実現する」という志向でした。のちに江戸無血開城を実現させる勝の交渉力は、この考え方に基づいています。

勝にとって重要なのは「誰が権力を握るか」ではなく、「日本が滅びずに次の時代に進めるか」だったのです。

坂本龍馬の立場と思想

土佐脱藩から海軍操練所へ

坂本龍馬は土佐藩(現在の高知県)の下級武士の家に生まれました。

幼い頃から剣術に励み、江戸でも腕を磨きましたが、彼が真に大きな一歩を踏み出すのは「脱藩」してからです。脱藩とは、藩の許可を得ずに領地を離れる行為であり、当時は重罪とされました。

それでも龍馬は「土佐藩という枠に縛られていては何もできない」と考え、自らの志を実現するために脱藩しました。

その後、龍馬は勝海舟の設立した神戸海軍操練所に身を寄せます。ここで彼は西洋式の航海術を学び、船の重要性を実感しました。

のちに日本をまとめるために船を使い、物流や情報伝達の要として海運を重視する姿勢は、この時期に培われたものです。

龍馬の独自のビジョン

坂本龍馬の特徴は、幕府や藩といった既存の枠組みにとらわれずに動いた点です。

彼は「亀山社中」という日本初の商社を仲間とともに設立しました。これは単なる商売のためではなく、船を所有し、物資を融通し、藩や志士たちの活動を支えるための組織でした。

経済と政治を結びつけるという発想は、当時としては非常に斬新でした。

さらに、龍馬は「船中八策」と呼ばれる政治構想をまとめました。

これは新しい日本のあり方を示す設計図のようなもので、「民主的な政治制度」「外交の開放」「自由貿易」などが盛り込まれていました。

龍馬は武士でありながら、既に近代的な国家のイメージを抱いていたのです。

両者の出会いと師弟関係

出会いの経緯

勝海舟と坂本龍馬が初めて接点を持ったのは、幕府が設立した「神戸海軍操練所」を通じてでした。

当時、龍馬は土佐藩を脱藩した身であり、行き場のない浪士として各地を転々としていました。その一方で、西洋の軍事力や海運の重要性を強く感じ取り、自らも航海術を学ぼうとしていたのです。

一説には、龍馬は当初「開国的な思想を持つ勝海舟を討とう」とまで考えていたといわれます。攘夷思想が根強い時代であり、外国に妥協する勝の姿勢は敵視されやすかったからです。

しかし実際に対面してみると、勝が単なる幕臣ではなく、日本全体の未来を真剣に案じている人物であることを知ります。

特に「今のままでは日本は外国に呑み込まれてしまう」という勝の切実な訴えや、「戦わずして国を守る」という平和的な視点は、龍馬に大きな衝撃を与えました。

こうして龍馬は、勝を討つどころか、深く敬愛する師として仰ぐようになります。

そして勝もまた、龍馬の自由な発想や大胆な行動力に強く惹かれました。幕府という枠の中でしか動けない自分にとって、龍馬のように縛りのない立場で奔走できる存在は、日本を変えるための「希望」に見えたのです。

師弟関係の実態

勝と龍馬の関係は、単なる師と弟子の枠を超えたものでした。

勝は龍馬に西洋式の航海術を教えただけでなく、アメリカ渡航で得た国際的な知識や、世界情勢の見方を惜しみなく伝えました。

龍馬はこれを吸収し、自分の政治的な構想や活動に活かしていきます。たとえば後年、薩長同盟の仲介に奔走できたのも、勝から学んだ「国全体の視点」が土台となっていたといえるでしょう。

一方で、龍馬の行動は常に予測不能でした。商社の設立や各藩との交渉など、幕府の人間には到底できないような動きを平然と行いました。

勝からすれば「危なっかしい弟子」でもありましたが、その自由奔放さこそが幕末の閉塞した状況を打ち破る力であることを理解していました。

また、勝は幕府から龍馬を守る役割も果たしました。脱藩浪士である龍馬は、本来なら追われる身です。しかし勝はその危うさを承知のうえで、時に庇護し、龍馬が活動を続けられるよう取り計らいました。

これは単に弟子への情だけでなく、「龍馬が日本の未来に必要だ」という確信があったからこそ可能だった行為でした。

こうして二人は、師弟でありながら互いに補い合う関係を築いていったのです。勝は龍馬に知識と方向性を与え、龍馬は勝の思想を現実の行動に移す存在となりました。

この関係性こそが、幕末の激動期において大きな意味を持ったのです。

両者が果たした歴史的役割

薩長同盟への布石

幕末の大きな転換点の一つに「薩長同盟」があります。これは薩摩藩と長州藩が手を結び、倒幕へと向かう同盟でした。

しかし当時、薩摩と長州は長らく対立関係にあり、互いを敵視していました。普通に考えれば、とても同盟など結べる状況ではなかったのです。

ここで重要な役割を果たしたのが坂本龍馬です。

龍馬は薩摩と長州の間を奔走し、互いの利害を調整しました。彼は「日本を守るためには藩同士の争いではなく、協力が必要だ」と説き、両者をまとめました。

結果として1866年に薩長同盟が成立し、これが後の倒幕運動の大きな原動力となります。

一方、勝海舟もこの流れに無関係ではありませんでした。

幕臣として表立って薩長同盟に関与することはできませんでしたが、勝の思想は「日本全体をどう生き残らせるか」という点で龍馬の活動と重なっていました。

勝が龍馬を育て、保護したからこそ、龍馬は自由に動いてこの大きな仕事を成し遂げることができたのです。

江戸無血開城への連続性

勝海舟が歴史に名を残した最大の功績は、江戸無血開城です。

1868年、旧幕府軍と新政府軍は対立し、一触即発の状態にありました。江戸で戦が始まれば、多くの市民が犠牲になり、江戸という大都市そのものが焼き尽くされる危険がありました。

そこで勝は新政府軍の西郷隆盛と直接交渉し、戦わずに江戸城を明け渡すことに成功しました。これにより、日本は大規模な内戦を避けることができたのです。

この勝の平和的解決への姿勢は、かつて龍馬と語り合った「血を流さずに新しい時代を作る」という理想にも通じます。

龍馬自身は大政奉還の直後に暗殺されてしまい、この場に立ち会うことはできませんでした。

しかし、龍馬が蒔いた種、つまり薩長同盟や倒幕の方向性は、確かに勝の手で引き継がれていったのです。

結論:勝海舟と坂本龍馬の関係の歴史的意義

勝海舟と坂本龍馬の関係は、単なる師弟関係にとどまらず、日本の歴史を大きく動かした協力関係でした。

勝は幕臣として制度の内側から改革を模索し、龍馬は脱藩浪士として自由に奔走しました。二人の立場は正反対でしたが、その目的は一致していました。

それは「日本を近代国家として存続させること」と「無益な流血を避けて新しい時代を迎えること」でした。

勝が龍馬を庇護し、西洋の知識を伝えたからこそ、龍馬は大胆な構想を描き、薩長同盟を実現することができました。そして、龍馬が倒幕への道筋をつけたからこそ、勝は江戸無血開城という大事業を成し遂げられたのです。

つまり、両者は互いに補い合う関係にありました。勝の知識と冷静な判断力、龍馬の行動力と柔軟な発想。それぞれが欠けていれば、幕末の政権交代はもっと血なまぐさいものになっていたかもしれません。

二人の関係は「幕末の奇跡」とも言える存在でした。彼らの協力があったからこそ、日本は大規模な内戦を回避し、明治維新という新しい時代を迎えることができたのです。