嘉吉の乱は、室町時代中期に発生した大規模な政変です。将軍・足利義教が暗殺されるという衝撃的な事件に端を発しています。
この乱は、一人の守護大名が主導して将軍を討ったという、当時としては前代未聞の出来事でした。
室町幕府の権威を大きく揺るがす契機となっただけでなく、守護大名たちの勢力関係にも影響を与えたため、日本史において重要な位置を占めています。
嘉吉の乱の背景から発端、戦いの展開、そしてその結果までをわかりやすく解説していきます。
嘉吉の乱の背景
室町幕府の権力構造
室町幕府は、将軍を頂点としながらも実際の政治運営には守護大名が強い力を持つ体制でした。
特に、足利義満の時代には将軍権力が最盛期を迎えましたが、その後は幕府の内紛や大名同士の対立によって統制力が弱まりつつありました。
六代将軍・足利義教が就任したとき、幕府は権威を取り戻そうとしていましたが、守護大名たちとの関係は微妙な均衡の上に成り立っていたのです。
将軍足利義教の性格と統治姿勢
義教はもともと天台宗の僧侶であり、将軍となる前に還俗して政界に復帰しました。
そのため、彼の政治姿勢には僧侶としての厳格さと専制的な気質が見られます。
義教は自らの権威を確立するために、守護大名を容赦なく処分することがあり、従わない者を排除する強引なやり方をとりました。
こうした強権的な政治は一部の大名にとって脅威となり、次第に不満が蓄積していきました。
赤松氏と幕府の関係
播磨国を拠点とする赤松氏は、室町幕府の成立に大きく貢献した有力な守護大名の一族でした。赤松満祐はその当主であり、義教からも一定の信任を得ていました。
しかし、次第に義教との関係は悪化していきます。特に、義教が赤松氏の領国に干渉するようになったことや、強引な人事を行ったことが対立を深める原因となりました。
満祐にとって、義教の存在は領国経営にとって大きな障害となり、ついには命を狙うまでに至ったのです。
嘉吉の乱の発端
足利義教の暗殺
嘉吉元年(1441年)、播磨国で行われた饗宴の場において、六代将軍・足利義教が赤松満祐の手によって暗殺されました。
義教は油断なく警戒心の強い人物として知られていましたが、このときは赤松邸での宴席という状況もあり、安心して臨んでいたと考えられています。
暗殺の場面は迅速かつ計画的であり、義教は刀を抜く間もなく命を落としました。この事件は将軍親政を支える柱を一瞬で失わせ、幕府全体に大きな衝撃を与えました。
赤松満祐の行動
満祐が義教を討った理由には、自らの領国経営への干渉への反発や、将軍の専制政治に対する危機感がありました。
義教は赤松氏の領地を没収する計画を進めていたとされ、満祐にとっては一族の存続をかけた決断でもありました。
しかし、将軍を討つことは幕府全体を敵に回す行為であり、赤松家が孤立する危険は十分に予想できました。
満祐の行動は果敢であると同時に、極めて絶望的な賭けでもあったといえるでしょう。
戦いの展開
幕府側の対応
将軍が暗殺されたという知らせは京に伝わると、幕府は直ちに対応に動きました。
義教の死後、幕政を支えたのは有力守護である細川持之や畠山持国らでした。彼らは幕府の威信を守るために赤松氏討伐を決定し、全国の守護大名に兵を集めさせました。
これは単なる私闘ではなく「将軍弑逆」という大罪に対する征伐であったため、多くの大名が幕府側に加わることとなりました。
赤松軍の動き
赤松軍は播磨・摂津の要地に籠もり、迎撃の構えを見せました。満祐は領国の防備を固め、徹底抗戦を試みましたが、幕府軍の動員力は圧倒的でした。
赤松氏に同調して立ち上がる大名は現れず、孤立無援の戦いを余儀なくされました。やがて幕府軍の包囲は強まり、赤松氏の拠点は次々と陥落していきます。
戦況は明らかに赤松側の不利に傾き、持久戦の見込みもなくなっていきました。
結果と影響
赤松氏の滅亡
赤松満祐は徹底抗戦を続けましたが、幕府軍の包囲は日に日に厳しくなり、ついに拠点は崩壊しました。満祐は自害し、赤松一族の多くも命を絶ちました。
これにより、赤松氏は守護大名としての地位を完全に失い、播磨をはじめとする領地は没収されました。
その後、没収された赤松領は細川氏や山名氏など幕府に忠実な勢力に分与され、赤松氏の勢力は歴史の表舞台から一時姿を消しました。
室町幕府への打撃
将軍義教が暗殺されたという事実は、幕府にとって計り知れない打撃でした。
幕府は義教の後継として足利義勝を立て、体制を維持しようとしましたが、将軍の権威は大きく揺らぎました。
特に、守護大名の間で「将軍といえども討たれる可能性がある」という前例を残してしまったことは、幕府の威信低下につながります。
その後の室町幕府は、守護大名たちとの均衡に依存する傾向を強め、強力な中央集権を築くことが難しくなっていきました。
嘉吉の乱をめぐるもう一つの視点
嘉吉の乱は将軍暗殺という劇的な事件で知られていますが、その周辺にはあまり語られない興味深い出来事も残されています。
一つは、事件後に発生した「嘉吉の徳政一揆」との関連です。義教の死からわずか数か月後、京都や近畿地方では土一揆が広がり、借金の帳消しを求める声が高まりました。
幕府はこれを認めざるを得ず、徳政令を発布しました。直接的には赤松氏の反乱と関係はありませんが、同じ年に起きたことで「嘉吉」という元号は乱と一揆の両方を象徴する言葉となりました。
また、赤松満祐が自害した後、一族の一部は密かに生き延び、後に再興の道を歩んだと伝えられています。
特に赤松政則の代には、赤松氏は播磨に戻り、戦国時代を通じて存在感を示し続けました。完全な断絶ではなく、一時的な没落と再興を経験した点もこの乱の特徴といえるでしょう。
さらに、当時の人々の記録には、義教の死が「天罰」と受け止められたという記述も見られます。
専制的な将軍に対する怨嗟が広く存在していたことを示しており、乱そのものだけでなく人々の心理にまで影響を及ぼした事件だったことがわかります。