日本の歴史には武士だけでなく、農民や僧侶が主役となって国を動かした例も存在しました。
その代表が、加賀国(現在の石川県)で起きた一向一揆です。
一向一揆は浄土真宗の信徒たちが結束し、守護大名を打ち倒して自らの力で政治を行った大事件でした。
加賀の一向一揆とは何か
一向一揆とは、浄土真宗本願寺の信徒(門徒)たちが組織した武力蜂起のことを指します。
「一向宗」とも呼ばれた浄土真宗は、庶民に深く浸透し、彼らを強く結びつける信仰共同体を作り上げました。
加賀における一向一揆の大きな特徴は、単なる一時的な反乱ではなく、守護大名の権力を打ち倒し、その後約100年にわたって自治的な支配を続けたことです。
そのため「百姓の持ちたる国」と表現されることもあり、日本史上でも極めて特異な存在となっています。
背景:加賀の社会と宗教状況
室町時代後期の加賀国
加賀国は、室町時代の後期に入ると社会構造が大きく揺らぎ始めていました。
荘園制度が崩れ、かつて強力だった中央の貴族や寺社の支配力が弱まる一方で、地元の国人領主や有力農民が力を持つようになります。
しかし、この地方支配は安定したものではなく、武士や国人同士の抗争が絶えませんでした。
加賀守護であった富樫氏もまた、内部対立や他勢力との争いに翻弄され、領国を確実に掌握できない状況に置かれていました。
こうした政治的混乱は、庶民が結束して自らを守ろうとする動きを後押しすることになったのです。
浄土真宗(本願寺)の広がり
この時期、庶民の心を強くつかんでいたのが浄土真宗でした。
本願寺が説いた「南無阿弥陀仏と唱えれば誰もが救われる」という平等の思想は、武士や貴族の力に押さえつけられてきた農民や下層の武士にとって大きな支えとなりました。
信仰によって結ばれた門徒たちは、単に宗教的な仲間であるだけでなく、互いを助け合い、外敵に立ち向かうための強固な共同体を形成していきます。
特に加賀では、この結束がきわめて強く、やがて守護大名にすら対抗できるほどの組織力へと発展していきました。
一向一揆の発端
富樫氏との対立
加賀守護の富樫氏は、室町幕府から任命された加賀の支配者でした。
しかし、領国経営は思うように進まず、内部では一族同士の争いが絶えませんでした。その中で、守護権力に不満を持つ国人や農民は、浄土真宗の門徒と手を結ぶようになります。
富樫政親が守護として強権を振るおうとすると、信徒たちは「信仰を守るための戦い」として反発を強めていきました。
宗教的な結束と在地勢力の不満が重なったことで、大規模な蜂起が現実のものとなったのです。
1488年の蜂起
1488年、ついに加賀の門徒たちは一斉に立ち上がりました。
加賀一向一揆の中心となったのは農民や国人領主、さらに下級武士たちで、彼らは組織的に行動して富樫政親を攻めました。結果、政親は自害に追い込まれ、守護大名の権威は完全に失墜します。
これによって加賀国は、名目上は幕府や富樫氏の領地でありながら、実際には門徒たちによる自治的な支配が確立することとなりました。この蜂起こそが、加賀一向一揆の本格的な始まりでした。
一向一揆の目的とは
宗教的結束を守る
一向一揆の根本には、信仰を守り抜こうとする強い意志がありました。
浄土真宗の教えは、身分や財産の有無に関係なく、誰でも救われるという平等思想を掲げていました。そのため、門徒にとって信仰は日常生活に深く根づき、心の拠り所となっていたのです。
ところが、守護大名や他宗派からの弾圧や干渉は、その信仰生活を脅かすものでした。
門徒たちは「自分たちの宗教的結束を守るためには、武力を用いることもやむを得ない」と考え、一向一揆に踏み切ったのです。これは単なる反乱ではなく、信仰共同体の存続をかけた戦いでした。
在地支配の確立
もう一つの大きな目的は、在地の支配権を自分たちの手に取り戻すことでした。
荘園制の崩壊で旧来の支配構造が揺らぐなか、守護や荘園領主が強権的に年貢や労役を課すことに、農民や国人層は強い不満を抱いていました。
一向一揆を通じて門徒衆は、外部の権力者に従うのではなく、自らの共同体で政治を運営しようとしました。
これによって、守護大名の圧政を排除し、自分たちの暮らしを自分たちで守る仕組みを作り出そうとしたのです。
経済的利害
さらに、経済的な要因も見逃せません。守護大名や荘園領主に従属する形では、農民は年貢や税負担に苦しめられ続けます。
一揆を起こすことで、その重い負担を軽減できる可能性がありました。
実際、門徒たちは自治的支配を確立した後、課税の仕組みを自分たちで決め、必要に応じて共同体のために活用しました。
つまり、一向一揆の目的には、単に宗教や自治だけでなく、経済的な自立を追求する意図もあったのです。
その後の加賀一向一揆
約100年続いた「百姓の持ちたる国」
1488年の蜂起以降、加賀は守護大名不在のまま、門徒たちによる自治が続きました。この状況は約100年にわたり維持され、他に類を見ない「百姓の持ちたる国」と呼ばれる社会を実現しました。
門徒衆は評定や合議を通じて物事を決定し、武士・農民を問わず、信仰共同体の一員として運営に関わりました。
これは戦国時代の日本において極めて特異な政治体制であり、全国的にも注目される存在となっていきます。
内部対立と衰退への道
しかし、この自治体制は永遠には続きませんでした。門徒内部での主導権争いが次第に激化し、統制を保つことが難しくなっていきます。
さらに、戦国の世で勢力を拡大する織田信長が本願寺や一向一揆勢力と激しく対立するようになり、加賀もその渦中に巻き込まれました。
最終的に、織田軍の攻勢によって加賀の一向一揆勢力は大きく衰退し、自治体制は終焉を迎えることになります。
一揆が周辺諸国に与えた意外な影響
加賀の一向一揆は、単なる政治・軍事的な出来事にとどまらず、地域社会や文化にまで影響を及ぼしました。
まず注目されるのは、自治体制のもとで築かれた「門徒のネットワーク」です。加賀の門徒は地元だけでなく、越前・能登・近江など各地の信徒とも結びついており、経済や物流の面で互いを支え合っていました。
これによって加賀の特産物である米や織物が広域に流通し、宗教共同体が経済活動をも活性化させたと考えられています。
また、一揆の拠点となった寺院は単なる宗教施設ではなく、政治や軍事の中枢でもありました。
例えば、門徒衆は寺を集合場所や物資の保管所として利用し、戦時には砦の役割を果たすこともありました。このように寺院が地域防衛の拠点となったことは、戦国時代特有の現象といえます。
さらに、加賀の一向一揆は周辺諸国の武将たちにも大きな影響を与えました。
近隣の大名たちは、農民や門徒がこれほどまでに結束して守護大名を打倒した事実を重く受け止め、領国内での宗教勢力や庶民の動向に注意を払うようになったのです。
これは、戦国大名の統治方法に間接的な変化をもたらしたとも言えるでしょう。