岩倉使節団とは何をした人達なのか?目的と日本への影響

明治時代の初め、日本は急速に近代化を進めていました。しかしその一方で、欧米諸国との間に結ばれた不平等条約によって、日本は国際社会で対等な立場を築けずにいました。

この状況を打開する目的で、明治政府が送り出したのが「岩倉使節団」です。

1871年から約1年10か月をかけて、彼らはアメリカやヨーロッパの国々を歴訪しました。

条約改正交渉を試みるとともに、政治制度、教育、産業、文化など幅広い分野を視察し、日本の未来に役立つ知識を持ち帰りました。

本記事では、岩倉使節団の目的や活動、そして日本に与えた影響を、わかりやすく解説していきます。

岩倉使節団の目的

【目的1】不平等条約改正への期待

明治維新を経て誕生した新しい日本政府にとって、最大の課題のひとつが「不平等条約」の存在でした。

江戸幕府の時代に欧米諸国と結んだ条約では、日本は自分で輸入品の関税率を決める権利(関税自主権)を持っていませんでした。そのため、海外から安価な工業製品が流入し、日本の伝統的な産業は大きな打撃を受けてしまいました。

さらに、外国人が日本で罪を犯しても、日本の法律では裁けず、その人の本国の領事が裁判を行う「領事裁判権」が認められていました。これは日本の司法権が軽視されている状態であり、独立国家としての立場を弱める大きな要因でした。

このように、日本は形式上は独立国でありながら、実際には欧米列強に対して不利な条件を押しつけられていたのです。

岩倉使節団の第一の目的は、この状況を改善するために欧米諸国と交渉し、条約改正への糸口を見つけることでした。彼らは「日本は新しい近代国家としてふさわしい存在である」と示すことで、国際社会に認めてもらおうと考えていたのです。

【目的2】欧米先進国の制度を学ぶ

もうひとつの大きな目的は、日本の国づくりの参考となるように、欧米のさまざまな制度や仕組みを直接調査することでした。

明治政府の指導者たちは、「日本が独立を守り、強く豊かな国になるためには、ただ軍事力を増やすだけでなく、国全体の仕組みを根本から整える必要がある」と考えていました。

例えば、彼らが特に注目したのは以下の分野です。

  • 政治制度:議会のあり方や憲法の仕組みを学び、日本にふさわしい政治体制を作る手がかりを探しました。
  • 経済・産業:近代工業の発展や交通・通信の仕組みを調査し、日本の産業振興に役立てようとしました。
  • 教育制度:国民に知識を広める教育のあり方を学び、「国民全体のレベルを高めることが国の力につながる」という発想を取り入れました。
  • 軍事と国防:近代的な軍隊の組織や装備を調べ、国防力を高める方法を模索しました。

特に、ドイツの法制度やアメリカの教育制度は、日本の近代化に大きな影響を与えることになります。

岩倉使節団は「どのように国を運営すれば、国際社会で対等に渡り合えるのか」という大きな問いを抱え、各国で学び続けたのです。

岩倉使節団のメンバー

岩倉具視を中心とした政府の代表

使節団の最高責任者は、明治政府の右大臣であった岩倉具視(いわくらともみ)です。

彼は公家出身で、明治維新後の新政府で中心的な役割を果たしました。特に、欧米諸国と交渉するにあたり、天皇の名代としての立場を持ち、強い権威を背景に使節団を率いる存在となりました。

外交の場では日本の立場を説明しつつ、世界の一流国家からどのように日本が見られているかを直接確認するという重要な役割を担ったのです。

副使を務めた明治の立役者たち

岩倉を補佐する形で、後に日本の近代化を進める中心人物たちが「副使」として加わりました。

  • 木戸孝允(きどたかよし)
    長州藩出身で、倒幕運動を主導した人物のひとりです。政治思想や制度に深い関心を持ち、ヨーロッパの議会制度や教育制度を熱心に調査しました。のちに国会開設や憲法制定の議論に大きな影響を与えます。
  • 大久保利通(おおくぼとしみち)
    薩摩藩出身で、西郷隆盛と並ぶ維新のリーダー格です。経済や産業政策に関心を持ち、視察を通じて「殖産興業」の方針を固めました。帰国後は鉄道や工場建設を推進し、日本の近代産業の基盤を作ることに尽力しました。
  • 伊藤博文(いとうひろぶみ)
    同じく長州出身で、のちに日本初代内閣総理大臣となる人物です。視察では特にドイツの憲法や法制度に強い影響を受け、帰国後の憲法制定作業において中心的な役割を果たしました。岩倉使節団での経験が、彼を「近代日本の憲法の父」と呼ばれる存在に育てたと言えます。

同行した専門家や留学生

使節団には政治家だけでなく、各分野に精通した専門家や、将来を期待される若い留学生も含まれていました。

  • 外交交渉を補助するための通訳や法律専門家
  • 産業や技術を調査する学者や技術者
  • 海外で長期滞在し、語学や学問を学ぶことを目的とした若者たち

このように、総勢約100名にのぼる大規模な団体が編成され、日本の将来を担う人材が数多く参加しました。彼らは現地で得た知識や経験を持ち帰り、明治政府の改革に直接生かしていったのです。

岩倉使節団がしたこと

岩倉使節団は約1年10か月にわたり、アメリカからヨーロッパ各国まで十数か国を巡り、政治・経済・文化・教育といった多方面にわたる調査を行いました。

これは単なる外交の旅ではなく、日本人が初めて世界規模で「先進国の実情を直接学んだ」歴史的な経験でした。この壮大な旅の成果は、後の明治日本の近代化を支える大きな財産となったのです。それぞれについて詳しく見てみましょう。

アメリカでの交渉

1871年12月に横浜港を出発した岩倉使節団は、まず太平洋を渡りアメリカに上陸しました。首都ワシントンD.C.では当時の大統領グラントと面会し、不平等条約の改正を求めましたが、国力の不足を理由に受け入れられませんでした。

交渉自体は不調に終わったものの、アメリカ国内で見た鉄道や電信網、そして西部開拓による都市の急成長は、近代化が国全体を大きく変える姿を教えてくれました。日本の参加者たちは、「日本も国内の発展を進めなければ世界に肩を並べられない」と痛感したのです。

イギリスで産業革命を知る

その後、一行は大西洋を渡ってイギリスへ。ここは産業革命の中心地であり、マンチェスターの紡績工場やリバプールの港湾施設、巨大な造船所を視察しました。

石炭を燃料とする蒸気機関車が都市をつなぎ、機械化された工場で大量生産が行われる様子は、日本の産業発展の遅れを強く意識させました。

また、議会政治や法制度の整備にも触れ、工業力だけでなく「国を支える仕組みの成熟」も重要であると理解しました。

フランスで文化と教育を学ぶ

フランスではパリを中心に訪問し、美術館や博物館、学校などを見学しました。特にルーヴル美術館やパリ大学は印象的で、芸術や学問が市民生活に根づいている様子は、日本との大きな違いでした。

また女性教育や市民教育の充実ぶりも確認し、教育が社会全体の発展に欠かせないことを学びました。この経験は、後の日本における義務教育制度の導入や文化政策の整備に影響を与えることとなります。

ドイツ・イタリアで国家制度の知識を身につける

さらにドイツやイタリアでは、統一国家がどのように形成されたのかを調査しました。

特にプロイセンでは憲法や軍事制度を視察し、「近代国家の基盤は強固な法律と組織的な軍事力にある」という考えを深めました。

ビスマルクが主導する強力な政府と効率的な行政機構は、日本が模範とするべきモデルとして記憶されました。実際にその後の日本の憲法制定や徴兵制度には、ドイツの制度が大きな参考となります。

岩倉使節団が日本に与えた影響

条約改正交渉の挫折が与えた教訓

岩倉使節団の第一の目的は、不平等条約の改正でした。

しかし、訪れたアメリカやヨーロッパの国々は、日本がまだ国際的に十分な信用を持つ「近代国家」とは認めていませんでした。そのため、関税自主権や領事裁判権の回復は実現できず、条約改正交渉は失敗に終わりました。

この挫折は日本政府にとって大きな痛手でしたが、逆に「まずは国内を改革し、欧米諸国と対等に渡り合える国力を築く必要がある」という強い教訓を与えました。

結果として、明治政府は「富国強兵」や「殖産興業」といった政策を本格的に進める決意を固めたのです。つまり、この失敗は日本が内政改革に全力を注ぐきっかけになったと言えます。

近代化への大きな推進力

条約改正には失敗したものの、岩倉使節団の視察は日本の近代化を一気に加速させました。彼らが各国で見聞きした内容は帰国後に報告書としてまとめられ、多くの政策に直結しました。

  • 教育制度の改革
     欧米で義務教育が広く行われていることを学び、日本でも1872年に「学制」を公布し、全国的に学校教育を整備しました。これにより、読み書きや算術を学ぶ子どもが急速に増えていきました。
  • 憲法と政治制度の整備
     ドイツやアメリカの制度を参考に、「日本にはどのような憲法がふさわしいか」という議論が始まりました。その成果が1889年の「大日本帝国憲法」の制定であり、議会政治の導入にもつながりました。
  • 産業・軍事の発展
     鉄道や造船、電信などの技術が積極的に導入され、近代的な交通・通信網が整備されていきました。また、プロイセンの軍事制度を参考にした徴兵制が導入され、国防の強化も進みました。

岩倉使節団の経験がなければ、これほど短期間での改革は難しかったでしょう。彼らの旅は「条約改正の失敗」をきっかけに、「まず日本を強い近代国家にする」という国家方針を決定づけ、その後の明治国家の急成長を支える基盤を作ったのです。

岩倉使節団が残した遺産

岩倉使節団は条約改正交渉に失敗したものの、その旅で得た経験と知識は明治政府にとって計り知れない財産となりました。帰国後、団員たちは各分野で中心的な役割を果たします。

伊藤博文は憲法制定に深く関わり、日本初の内閣総理大臣となりました。大久保利通は殖産興業を推し進め、国内の産業基盤を整備しました。また、随行した留学生や若い知識人たちも、日本の教育界や産業界で活躍し、近代国家の形成を支えました。

さらに、彼らが持ち帰った膨大な記録や報告書は『米欧回覧実記』としてまとめられ、国内の知識人や政治家に広く読まれました。これは単なる旅の記録ではなく、日本がどの方向に進むべきかを示す道標となったのです。

こうして岩倉使節団は、表面的には外交で成果を挙げられなかったものの、その活動は後の日本の政治・経済・教育・軍事など、あらゆる分野に影響を及ぼしました。まさに「失敗の中に大きな成功を秘めた」歴史的な使節団だったといえるでしょう。