保科正之「ならぬものはならぬ」の意味と、言葉が生まれた背景

「ならぬものはならぬ」という言葉を耳にしたことがある方は多いのではないでしょうか。

この言葉は、会津藩の子どもたちが守るべき規範として伝えられてきたもので、単なる禁止の言葉ではなく、深い意味を持っています。

現代の日本でも道徳教育や自己規律を語る際に引用されることが多く、その背景を理解することで新たな気づきを得ることができます。

この記事では、この言葉を生み出した会津藩主・保科正之の人物像をたどり、「ならぬものはならぬ」という言葉の意味や歴史的背景を解説します。

保科正之と「ならぬものはならぬ」

保科正之とは誰か

保科正之(ほしなまさゆき、1611–1673)は、江戸時代初期を代表する名君のひとりであり、会津藩の礎を築いた人物です。彼は徳川家康の曾孫にあたる血筋を持ち、徳川将軍家と深いつながりがありました。家康の孫である徳川秀忠の庶子として生まれた後、保科家に養子入りし、その家名を継ぎました。

幼少期から厳格な教育を受けた正之は、若いころから誠実さと冷静な判断力で知られました。特に政治的な才覚と人望に恵まれ、藩内の統治を安定させるだけでなく、江戸幕府の中枢でも信頼を得ていました。四代将軍・徳川家綱の後見役を務め、幕府の基盤を固める重要な役割を担ったことから、「名補佐役」として高く評価されています。

一方で、正之は教育者としての側面も強く、藩士やその家族に「人の道」を教えることに心血を注ぎました。特に子どもたちに対しては、武士としての技量よりも「誠実さ」「規律」「人として恥ずべき行いをしない心」を重視しました。これが後に「什の掟」や「ならぬものはならぬ」という教えに結実していきます。

「什の掟」と会津藩の教育

会津藩には「什(じゅう)の掟」と呼ばれる、子どもたちのための生活規範がありました。「什」とは、近所や年齢の近い子どもたちで作る小さなグループのことを意味します。武士の子どもたちは日常的にこの「什」の単位で行動し、遊びや学びを通じて共同体意識を培っていました。

この「什の掟」には、以下のようなルールが定められていました。

  • 年長者の言うことには必ず従うこと
  • 嘘をついてはいけない
  • 卑怯な振る舞いをしてはいけない
  • 弱い者いじめをしてはいけない
  • 戸外で騒がないこと
  • 他人の迷惑になることをしないこと

これらは子どもでも理解しやすいシンプルな内容ですが、実生活に密接に関わる行動規範であり、徹底して守らせることで自然と規律心が育まれる仕組みになっていました。

そして、この「什の掟」の最後を締めくくる言葉が「ならぬものはならぬ」です。これは、どんな理由があろうとも「やってはいけないことは絶対にしてはいけない」という強い決意を端的に表現しています。

この言葉が加わることで、「掟」は単なるルール集ではなく、「人としての根本的な線引き」を子どもたちに教える強力な道具となりました。子どもたちは、なぜ禁止されているのかを理解する以前に、「してはいけないことをしてはいけない」という揺るぎない感覚をまず身につけます。こうして幼いころから「ならぬものはならぬ」が心に刻まれ、それが大人になってからも会津武士としての誇りと責任感を支える基盤となったのです。

「ならぬものはならぬ」の意味

道徳的な意味

「ならぬものはならぬ」という言葉には、道徳的な戒めが込められています。
それは「嘘をついてはいけない」「卑怯な振る舞いをしてはいけない」といった、人として守るべき基本的な規範を強調するものです。特に会津藩の教育においては、子どもたちが早いうちから誠実さや責任感を学ぶことが重視されていました。

この言葉は単に「禁止する」という消極的な意味にとどまらず、「正しいことを選び取る力を持ちなさい」という積極的な教育的意図が含まれています。つまり、他人の目を気にして行動するのではなく、自分自身の内側に「やってはいけないことはしない」という判断基準を持つことを求めていたのです。

社会秩序の観点

同時に「ならぬものはならぬ」は、共同体の秩序を守るための言葉でもありました。江戸時代は武士の身分制度を基盤とする社会であり、武士たちは自らの行動が藩全体の名誉や秩序に直結すると理解していました。

そのため、個人の欲望や利己的な判断よりも、共同体の規律を優先することが求められました。「ならぬものはならぬ」という言葉は、会津藩士だけでなくその家族や子どもたちに対しても、社会全体のルールを守る姿勢を身につけさせる役割を果たしていたのです。

このようにして、この短い言葉は道徳と社会規範の両方を象徴する、極めて重みのある指針として伝えられていきました。

言葉が生まれた背景

戦国から江戸初期への転換期

「ならぬものはならぬ」が広まった背景には、時代の大きな転換があります。戦国時代の終わりから江戸初期にかけて、日本は長い戦乱を経て安定期に入りました。しかし平和な時代を築くためには、人々の心に秩序を根付かせる必要がありました。

特に武士の子どもたちは、戦乱の世から平和の世へと価値観を切り替える必要がありました。戦の技だけではなく、誠実さや協調性を持つことが武士として求められる時代に移り変わっていたのです。

そのなかで「ならぬものはならぬ」という短い戒めは、平和社会を維持するための道徳的基盤を築く大切な役割を果たしました。

会津藩の家訓と武士道精神

会津藩はとりわけ厳格な家訓を持つ藩として知られています。保科正之自身が「藩士は私利私欲を捨て、正義を第一にすべし」という方針を示し、藩全体がその精神を共有していました。

その中で「ならぬものはならぬ」は、会津武士道の根幹を体現する言葉でした。これは単に子どもたちの教育規範にとどまらず、成長したのちも武士としての生き方を支える座右の銘として機能しました。

つまり、この言葉は教育の現場で子どもに教えられるだけでなく、大人になっても自らの行動規範として生き続ける「一生ものの戒め」だったのです。

「ならぬものはならぬ」の誤解と正しい理解

厳格すぎる掟ではない

現代では「ならぬものはならぬ」を「融通の利かない頑固さ」と受け取る人もいるかもしれません。しかし正之が伝えた本来の意味は「人の欲望や都合で動かしてはならない、絶対に守るべき基準がある」ということでした。つまり単なる禁止ではなく、人間らしく生きるための根幹を守るための言葉なのです。

自律と自由の関係

「ならぬものはならぬ」という自己規律があるからこそ、逆に人は安心して自由に生きることができます。境界線がなければ、社会は混乱し、真の自由は成立しません。正之が示したのは、制約を通して人がよりよく生きられる道筋だったといえます。

歴史に刻まれた「ならぬものはならぬ」

「ならぬものはならぬ」という言葉は、会津藩の教育理念にとどまらず、後の歴史のなかでも重要な意味を持ち続けました。幕末期、会津藩士たちは藩祖・保科正之の教えを胸に、動乱の時代においても忠義と規律を重んじる姿勢を貫きました。特に戊辰戦争において、会津藩が厳しい状況に置かれながらも秩序を乱さず戦い続けた姿勢には、「ならぬものはならぬ」の精神が色濃く表れています。

さらに、会津藩の子弟教育の一環として広められた「什の掟」は、近代以降も教育史のなかで注目されました。これは「地方藩の一教育方針」を超えて、日本の教育観や道徳観に影響を与えた一例といえます。こうして「ならぬものはならぬ」は、単なる藩の教えではなく、日本史の中で広がりを持った価値観として位置づけられるようになったのです。