後鳥羽上皇は何をした人?なぜ島流しになったのか?わかりやすく解説

日本の歴史には、権力をめぐる争いの中で波乱の人生を歩んだ人物が数多く登場します。

中でも、後鳥羽上皇は特に印象的な存在といえるでしょう。

天皇として即位したのち、上皇として政治に関わり、文化面では和歌の世界に大きな足跡を残しました。

しかし同時に、鎌倉幕府との対立から大きな戦乱を引き起こし、最終的には島流しという厳しい結末を迎えます。

後鳥羽上皇がどのような人物で、なぜ流罪という運命を辿ったのかを、歴史的背景とともにわかりやすく解説していきます。

後鳥羽上皇とはどんな人物か

幼少期と即位の経緯

後鳥羽天皇は、平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけて活躍した人物です。1180年に生まれ、わずか4歳という幼い年齢で天皇に即位しました。

当時は平氏政権が滅びた直後で、朝廷も不安定な状況にありました。幼少の天皇が即位するということは、実質的に政治を動かす力は周囲の大人たちに握られていたことを意味します。

やがて成長するにつれ、後鳥羽天皇は自らの意思で政治を動かす立場になっていきます。そして1198年に譲位して上皇となり、院政を開始しました。

上皇としての権力を背景に、天皇家の威信を取り戻すことを目指していきます。

上皇としての権力行使

後鳥羽上皇は政治面だけでなく、文化面でも才能を発揮しました。特に和歌に強い情熱を注ぎ、『新古今和歌集』の編纂を主導したことは有名です。

彼自身も優れた歌人であり、多くの和歌を残しています。芸術や文学を大切にした姿勢は、当時の朝廷文化を大きく支えました。

一方で、彼は政治的には強い意志を持ち、再び天皇家中心の支配を取り戻そうと試みました。そのため、やがて鎌倉幕府と衝突することになります。

鎌倉幕府との関係

鎌倉幕府の成立と上皇の立場

後鳥羽上皇が即位した頃、日本では大きな政治の変化が起きていました。源頼朝が平氏を打ち破り、鎌倉に武士政権を築いたのです。これが日本で初めての本格的な武家政権、鎌倉幕府です。

幕府は地方の治安維持や武士の統率を担い、朝廷は伝統的に儀式や文化を中心に支配を続けるという形で、両者は一応の役割分担をしていました。

しかし、後鳥羽上皇はただ文化を担うだけでは満足せず、再び天皇・上皇が主導する政治を実現しようと考えます。

緊張関係の高まり

源頼朝の死後、幕府では将軍の血筋が途絶え、北条氏が実権を握るようになりました。これによって幕府内の権力構造は不安定になり、朝廷にとっては勢力を取り戻す絶好の機会が訪れます。

後鳥羽上皇は、院政を強めることで幕府を抑え込み、天皇家が再び政治の中心に立つことを望みました。

しかし、この動きは当然ながら鎌倉側にとっては大きな脅威となり、両者の対立は次第に避けられないものとなっていきました。

なぜ島流しになったのか

承久の乱の発端

1221年、後鳥羽上皇はついに行動を起こします。鎌倉幕府を討ち滅ぼすため、全国の武士や有力者に呼びかけて兵を集め、挙兵に踏み切ったのです。これが有名な承久の乱です。

しかし、幕府は上皇の動きを察知すると素早く軍を組織し、東国の武士たちが次々と鎌倉側につきました。

武士たちは、日頃の恩恵を受けていた幕府への忠誠心が強く、朝廷側の呼びかけに応じる者は少なかったのです。

承久の乱の結果

戦いは短期間で決着がつきました。幕府軍は圧倒的な兵力で京都へ攻め込み、上皇側の軍勢は次々と敗退しました。

後鳥羽上皇の思惑とは裏腹に、幕府の力がどれほど強固なものであるかが明らかになった瞬間でした。

朝廷側の敗北は決定的で、多くの公家や武士が処罰されることになります。特に後鳥羽上皇にとっては、これまでの権力と威信を一気に失う大きな転機となりました。

島流しの決定

戦後処理にあたり、鎌倉幕府は後鳥羽上皇に対して極めて厳しい処分を下しました。上皇を隠岐へ流す、という決定です。

過去の歴史でも天皇や上皇が権力争いで失脚することはありましたが、流罪という処遇は非常に異例でした。

後鳥羽上皇はこうして、かつて国の頂点に立った人物から、一地方の島に閉じ込められる立場へと転落していきました。

隠岐での生活

上皇の晩年

隠岐へ流された後鳥羽上皇は、政治の表舞台から完全に退きました。

しかし、その生活は単なる幽閉ではなく、文化活動に多くの時間を費やしていたと伝えられています。特に和歌への情熱は衰えることなく、流罪の地にあっても数多くの作品を残しました。

また、島での暮らしの中では書道や宗教的な行いにも励み、精神的な充実を求め続けたとされています。

孤独の中にあっても、文化人としての姿勢を崩さなかったことは、彼の強い意志を物語っています。

最期

後鳥羽上皇は隠岐でおよそ20年を過ごし、1239年にその生涯を閉じました。

都から遠く離れた場所で亡くなった上皇の姿は、かつて国の最高権力者であった人間の運命の移ろいやすさを象徴しているともいえるでしょう。

死後、彼の存在は政治的な敗者としてではなく、優れた文化人として語り継がれるようになりました。和歌や文学に残した功績は後世に受け継がれ、歴史の中で特別な位置を占めています。

後鳥羽上皇をめぐる知られざる一面

後鳥羽上皇といえば承久の乱や和歌で有名ですが、彼にはあまり知られていない一面もあります。

ひとつは、武芸への強い関心です。上皇は弓術や刀剣に深く心を寄せ、特に刀剣の制作・鑑賞を好んだと伝えられています。刀工を庇護し、名刀の収集にも熱心だったため、後世には「刀剣好きの上皇」として語られることもあります。

文化人としての側面だけでなく、武士的な価値観に魅了されていたのは、当時の社会が武家政権へと移行していた時代性を映し出しているといえるでしょう。

また、後鳥羽上皇の流罪は後世の文学や芸能にもしばしば題材とされました。琵琶法師によって語られる軍記物語や、能・歌舞伎といった芸能の題材となり、敗者としての姿だけでなく、その気高さや悲劇性が人々の心に刻まれていきました。

歴史の敗者でありながらも物語の中で光を放ち続けた存在であることは、彼が単なる「政治の失敗者」ではなかったことを示しています。

さらに、隠岐の地には現在も後鳥羽上皇を祀る社や伝承が残されており、島の人々にとっては「流された上皇」ではなく「文化を伝えた存在」として親しまれています。

遠い都から来た支配者が、やがて地域の文化や伝承に溶け込んでいく姿は、歴史の面白さを感じさせる部分でしょう。