「御恩と奉公」の関係はなぜ崩壊したのか

日本の中世を理解するうえで欠かせないのが「御恩と奉公」という言葉です。

これは将軍と御家人の間に結ばれた主従関係を示すもので、鎌倉幕府の支配体制を支える基本的な仕組みでした。

御恩とは将軍から与えられる恩恵であり、奉公とは御家人がその見返りとして尽くす義務のことです。

この仕組みは武家政権の土台となりましたが、やがて機能不全を起こし、時代の流れとともに崩壊していきます。

なぜ御恩と奉公の関係は持続できなかったのでしょうか。

御恩と奉公とは

御恩とは、将軍が御家人に与えるさまざまな特典を指します。

代表的なものは土地支配を保証する「本領安堵」と、新たな領地を与える「新恩給与」です。

中世の武士にとって土地は生活の基盤であり、支配を認められることは存在意義そのものでした。

そのため御恩は単なる褒美ではなく、武士に安心と地位を与える極めて重要なものでした。

一方、奉公とは御家人が将軍に尽くす義務のことです。具体的には戦時における軍役、将軍の身辺警護、裁判での奉仕などが含まれます。

つまり御家人は土地を保証してもらう代わりに、戦いや政務の場で力を発揮する義務を負っていました。

御恩と奉公は単なる契約ではなく、武士同士の信頼と名誉を前提に成り立っていたと言えるでしょう。

鎌倉幕府における御恩と奉公

御恩と奉公の仕組みが整えられたのは、源頼朝の時代でした。平氏打倒を果たした頼朝は、1180年代から次第に全国の武士を組織化し、1192年には正式に征夷大将軍となります。

将軍と御家人の関係は、封建制度の中核を成すものであり、これによって頼朝は全国に影響力を広げることができました。

当初の鎌倉幕府では、この仕組みは比較的円滑に機能していました。頼朝の信頼を得た御家人たちは戦場で忠実に奉公し、その見返りとして領地の支配を認められました。

土地を保証されることは、御家人にとって何よりの安心材料であり、彼らの忠誠心を強めました。こうして幕府は中央の朝廷に対抗できる武士政権としての基盤を築いたのです。

しかし、御恩と奉公の関係は永遠に安定していたわけではありません。

頼朝の死後、幕府が直面した課題は、土地という有限の資源をどのように再分配するかという問題でした。ここから制度のひずみが次第に表面化していきます。

制度的なひずみの発生

御恩と奉公の関係は、土地を媒介として成り立っていました。

しかし、土地には限りがあります。頼朝の死後、新たに戦で功績をあげた御家人に報いるための「新恩給与」に充てられる土地が不足し始めました。これが制度上の大きな壁となりました。

さらに、将軍が保証する「本領安堵」も必ずしも安定していたわけではありません。

荘園領主や寺社、公領の権利と衝突することも多く、御家人が自らの土地支配をめぐって争う事例は絶えませんでした。幕府の裁定が公平に機能しないと、御家人たちは不満を募らせていきます。

恩賞が偏って与えられたり、幕府中枢の有力御家人が優遇されたりすることもありました。これにより地方の御家人との間に温度差が生じ、制度の信頼性が揺らいでいきました。

承久の乱以後の変化

1219年に源氏将軍が断絶し、北条氏が執権として権力を握ると、御恩と奉公の実態も変化を見せます。

1221年、後鳥羽上皇が幕府打倒を企てて起こした承久の乱は、大きな転換点でした。幕府は全国の御家人を動員し、圧倒的な兵力で朝廷軍を打ち破りました。

この勝利により幕府の権威は飛躍的に高まりましたが、その一方で多くの御家人に対する動員負担は非常に大きなものでした。

戦後処理として新恩給与が行われたものの、全員に十分な恩賞を与えることは不可能でした。とくに戦功をあげながら報われなかった御家人たちの不満は深刻でした。

また、朝廷から没収した広大な所領を分配する際に、北条氏をはじめとする有力御家人に多くが集中しました。

地方の御家人は取り分が少なく、結果として「御恩」が十分に行き渡らない事態が生まれます。

恩賞の偏りは幕府の求心力を弱め、将軍と御家人の間にあった信頼関係を徐々に揺るがせていきました。

室町期への移行と関係崩壊

鎌倉幕府は承久の乱以降、確かに権威を高めましたが、御恩と奉公の関係は次第に形骸化していきました。

その背景には、守護や地頭といった役職の権限が拡大し、地方武士層が次第に幕府の直接支配から離れていったことがあります。

とくに守護は、当初は治安維持や軍事動員を担う役職にすぎませんでしたが、次第に国内の政治や経済にも影響を及ぼすようになりました。

地頭もまた、年貢の徴収や土地支配を通じて独自の力を強めていきます。こうして幕府と御家人の直接的な主従関係は希薄になり、代わって守護大名とその被官という新しい主従関係が広がっていきました。

奉公もまた実質的に空洞化していきます。将軍に尽くす義務は形式として残ったものの、実際には守護や有力武士に仕えることが現実的な選択肢となり、御家人たちはより安定した主従関係を求めて従属先を変えるようになりました。

こうして、御恩と奉公を基盤とする鎌倉幕府の体制は次第に機能しなくなり、室町時代には別の形の武家社会へと移行していったのです。

総括:御恩と奉公の限界

御恩と奉公の仕組みは、土地支配を基盤とするがゆえに持続性に限界がありました。土地は有限であり、功績をあげた御家人すべてに新たな恩賞を与えることはできませんでした。

また、恩賞の配分が不公平だと感じる御家人が増えるにつれて、主従関係の信頼性は揺らいでいきました。

さらに、幕府そのものも朝廷や荘園領主との対立を抱え続け、御家人への「本領安堵」すら安定して保証することが困難でした。

御恩が確実に与えられない以上、御家人が奉公に積極的でなくなるのは当然の流れと言えるでしょう。

結果として、御恩と奉公という仕組みは武士の主従関係を形づくる重要な役割を果たしながらも、鎌倉幕府の発展とともにその限界を露呈し、やがて守護大名と被官という新たな関係へと取って代わられました。

御恩と奉公の崩壊は、武家社会がより柔軟で複雑な主従関係へと進化していく一過程であったと言えるのです。

余談:武士と土地をめぐるもう一つの現実

御恩と奉公の制度を理解するうえで見落とされがちな点は、実際の土地支配が必ずしも単純な「将軍―御家人」の直線関係ではなかったということです。

中世社会の土地は、荘園領主、在地の有力農民、寺社勢力など多様な主体が関与する複雑な権利関係のもとにありました。

御家人が土地を与えられても、その支配が円滑に進むとは限りません。荘園領主からの抵抗や、在地の武士・農民との対立が日常的に発生しました。

御家人はしばしば訴訟に持ち込み、鎌倉の問注所で解決を図ろうとしましたが、必ずしも望む結果が得られるわけではなく、不満を募らせる要因ともなりました。

また、土地の細分化も深刻な問題でした。相続のたびに所領が分割され、一人の御家人が支配する土地は次第に小さくなっていきました。

武士にとって土地は単なる財産ではなく、生活と軍事力の源でしたから、その弱体化は奉公の実効性低下にも直結しました。

御恩と奉公が揺らいでいった背景には、こうした日常的で現実的な土地問題が根深く横たわっていたのです。