明治維新の直後、日本は大きな転換点に立たされていました。長く続いた江戸幕府が倒れ、新しい国家をどのように築くかが問われていたのです。
そのとき示されたのが「五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」でした。
五箇条の御誓文は、1868年に明治天皇が発布した国の基本方針であり、近代国家としての出発を内外に宣言するものでした。
全5条の短い文ですが、その中には「公論を尊重する政治」「身分を超えた協力」「世界から学ぶ姿勢」といった、日本の未来を方向づける理念が凝縮されています。
この記事では、五箇条の御誓文がどのような内容を持ち、どんな目的で発表されたのかを、歴史的背景とあわせてわかりやすく解説します。
五箇条の御誓文の歴史的背景
江戸から明治への転換期
江戸時代は約260年にわたって続いた安定した時代でしたが、幕末になると状況が大きく変わりました。欧米諸国が日本に開国を迫り、従来の仕組みでは対応しきれなくなっていたのです。
ペリー来航をきっかけに不平等条約が結ばれ、日本は国際社会の中で大きな課題を抱えることになりました。
さらに、国内では「幕府を存続させるべきか、それとも新しい政治をつくるべきか」という議論が高まり、各地で武力衝突が起きるなど、まさに混乱の時代でした。
こうした状況の中で、徳川幕府は政権を朝廷に返上し、新政府が発足しました。
御誓文制定の経緯
しかし、新政府といっても、明治の初めはまだ力を持つ藩や武士たちが強く、自分たちの立場を守ろうとする思惑も入り乱れていました。
そのため、ただ政権を握るだけでは国をまとめることができなかったのです。
そこで示されたのが五箇条の御誓文でした。これは、「新しい日本はこういう国づくりを目指す」という大方針を明治天皇自らが宣言することで、国民に安心感を与え、同時に国際社会に対しても近代国家としての姿勢を示す役割を果たしました。
御誓文は京都御所の紫宸殿(ししんでん)で発布され、明治天皇が神々に誓う形で発表されたことから「御誓文」と呼ばれています。この形式は、国民や諸藩に対して強い説得力を持つものでした。
五箇条の御誓文の内容
五箇条の御誓文は、明治天皇が新しい時代の国づくりに向けて掲げた五つの基本方針です。それぞれの条文は短い言葉で書かれていますが、その中には当時の社会を大きく変える力を持つ理念が込められていました。
第一条から第五条までには、民主的な議論の重視、国民の協力、個人の自由な志の尊重、古い慣習の打破、そして世界から学ぶ姿勢といった、近代国家を築くために欠かせない考え方が並んでいます。ここからは、その五つの条文を一つひとつ解説していきましょう。
第一条:広く会議を興し、万機公論に決すべし
第一条は「重要な国のことは、広く会議を開いて公の意見によって決めなさい」という内容です。
江戸時代までは、政治は将軍や一部の幕府役人が決めてきました。
しかし、新しい時代には国の方針を一部の人だけで決めるのではなく、できるだけ多くの人の意見を取り入れようという考え方が示されています。
これは現代でいう「民主的な意思決定」の考え方に近いもので、日本が専制的な政治から脱却する第一歩を示していました。
もちろん、当時すぐにすべての国民が政治に参加できたわけではありませんが、この理念は大きな意味を持ちました。
第二条:上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし
第二条は「身分の上下を問わず、心をひとつにして国づくりに励もう」という内容です。
江戸時代は武士、農民、町人といった身分制度が強く、人々はそれぞれの立場に縛られていました。
しかし、新しい時代には全員が協力して国家をつくっていく必要がある、というメッセージが込められています。
これは、国の発展には支配階級だけでなく、すべての人々の力が必要だという考えを示したものです。結果として、後の身分制度廃止や国民皆兵の政策などにもつながっていきました。
第三条:官武一途庶民に至るまで、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
第三条は少し難しい表現ですが、「役人や武士だけでなく、庶民も含めて、それぞれが自分の志を追い求めることができるようにしなさい」という意味です。
江戸時代は職業が身分によって決められており、自由に仕事を選ぶことが難しい社会でした。
しかし、この条文は「人々が自分の力を発揮し、やりたいことを追求できるようにすることが大切だ」と宣言しています。
この考え方は、国民にやる気や活力を与えるだけでなく、新しい分野に挑戦する人材を育て、社会を活性化する効果を狙ったものでした。
第四条:旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
第四条は「古い悪い習慣をやめて、道理にかなった正しいやり方を取り入れよう」という意味です。
ここで言う「陋習(ろうしゅう)」とは、古くからあるけれども時代に合わなくなった慣習や制度のことです。例えば、無意味な身分差別や非合理的なしきたりなどがこれにあたります。
この条文は、日本をより合理的で公平な社会に変えていこうという強い意志を示しており、西洋の近代的な制度や考え方を柔軟に取り入れる姿勢にもつながっています。
第五条:知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
第五条は「知識や学問を世界から積極的に学び、日本の国の基盤を強くしよう」という内容です。
江戸時代までは鎖国政策が長く続き、海外との交流はごく限られていました。しかし、この条文ではむしろ「世界から学ぶことが必要だ」とはっきり示されています。
これは後の「富国強兵」「文明開化」のスローガンに直結し、西洋の学問や技術を導入する大きな根拠となりました。日本が急速に近代化できた背景には、この第五条の精神が強く働いています。
五箇条の御誓文の目的
五箇条の御誓文は、明治新政府が誕生した直後に発表された国の基本方針でしたが、その裏には単なる理想の提示だけでなく、いくつかの重要な目的が込められていました。
国内では政権交代による不安を収める必要があり、同時に新しい国家をどう築くかという指針を示さなければなりませんでした。さらに、海外に向けても日本が近代化に踏み出したことを強くアピールする意図があったのです。
ここからは、御誓文に込められた三つの目的を順に見ていきましょう。
国内統合のための政治的宣言
五箇条の御誓文が発布された大きな理由のひとつは、国内の不安定な状況を鎮めることでした。
幕末の日本は、倒幕派と旧幕府派がそれぞれの正義を掲げて戦い、内戦に発展する危険がありました。実際に鳥羽・伏見の戦いなどで両者が激しく衝突しており、日本がふたつに割れる寸前だったのです。
さらに、新政府が成立したといっても、その実態はまだ固まっていませんでした。薩摩・長州・土佐といった有力藩が中心となって政権を握ったものの、東北や旧幕府方の藩は不満を抱え続けていました。
各藩は領地や権益を守ろうとし、自分たちの意見が新政府に反映されるかどうかに強い関心を持っていたのです。
このような中で御誓文を通じて「これからの政治は一部の人間が勝手に決めるものではなく、公の議論を尊重して進める」「身分の上下にかかわらず協力して国を作っていく」という姿勢を明確に示したことには大きな意味がありました。
藩や武士階級に対して「新しい政府は公平で開かれたものである」という安心感を与え、反発を抑える効果を狙ったのです。
つまり御誓文は、国内の政治的な対立をやわらげる「融和のメッセージ」であり、国を一つにまとめるための象徴的な役割を果たしていたといえます。
近代国家建設の基本理念
御誓文は、単に混乱を収めるための道具ではありませんでした。新しい国づくりの方向性をはっきりと打ち出す意味合いも強く持っていました。
五つの条文を見てみると、そこには近代国家を築くために欠かせない理念が網羅されています。
- 民主的な議論の重視(第一条):国の大事は公論によって決めるべきと宣言。
- 身分を超えた協力(第二条):武士だけでなく農民や町人も含め、全員が国づくりに関わるべきと明言。
- 個人の自由な志の尊重(第三条):人々が自分の夢や志を追い求められる社会を目指す。
- 古い悪習の打破(第四条):時代遅れのしきたりを捨て、合理的で公平な制度を導入する。
- 世界から学ぶ姿勢(第五条):海外の学問や技術を積極的に取り入れ、国の基盤を強化する。
これらはすべて、国を近代化するうえで必要な価値観でした。つまり御誓文は「これからの日本はこうあるべきだ」という大きな指針を国民に提示したものだったのです。
後の明治憲法の制定や教育制度の整備など、近代国家を形づくる政策の多くは、この理念を土台として展開されていきました。
対外的アピール
御誓文にはもうひとつ重要な狙いがありました。それは海外に対するアピールです。
当時の日本は欧米列強と結んだ不平等条約のもとで、不利な立場に置かれていました。条約を改正して主権を回復するには、日本が「近代国家としてふさわしい姿」を示す必要があったのです。
そのため御誓文では「公論を尊重する政治」や「世界から知識を学ぶ姿勢」を前面に押し出しました。
これにより「日本はもう閉ざされた国ではなく、世界と肩を並べていく」という姿勢を国際社会にアピールすることができました。
実際、この方針があったからこそ、日本は短期間で欧米の技術や制度を導入し、近代化を急速に進めることができたのです。
御誓文は、国内向けには融和のメッセージであり、国外向けには日本の変革を伝える外交的なメッセージでもありました。
日本が「鎖国の時代」を終え、「世界に開かれた国」として歩み出す第一歩だったといえるでしょう。
五箇条の御誓文の意義と限界
後世への影響
五箇条の御誓文は、単なる政治的スローガンにとどまらず、その後の日本の発展に大きな影響を与えました。
まず、明治憲法や議会制度といった近代的な政治の仕組みを整えるうえで、「公論を尊重する」という理念は重要な基盤となりました。
また、「知識を世界に求める」という方針は、文明開化や西洋技術の導入を正当化する根拠となり、日本が短期間で近代国家へと成長する大きな原動力になったのです。
さらに、「身分を超えて協力する」や「個人の志を尊重する」という考え方は、明治以降の社会制度改革にも反映されました。
例えば、身分制度の廃止や教育制度の普及など、国民一人ひとりが能力を発揮できる社会へとつながっていきました。
実現における制約
しかし一方で、御誓文の理想がすぐに実現したわけではありませんでした。
第一条で示された「公論による政治」は、当初は一部の有力藩や政府の指導者たちによって進められ、国民全体の意思が直接反映されるわけではありませんでした。
実際に選挙や国会が整備され、国民の声が政治に届くようになるのは、もう少し後の時代のことです。
また、旧来の慣習を破るといっても、社会に根づいた差別や不平等をなくすには長い時間がかかりました。
御誓文はあくまでも理念としての宣言であり、その実現には多くの試行錯誤と時間が必要だったのです。
近代国家への出発点としての意義
五箇条の御誓文は、明治新政府が掲げた国の根本方針として広く知られることになりました。
その後、この御誓文を実際の施策へと落とし込むために、政府は「政体書(せいたいしょ)」を制定しました。これはアメリカの三権分立制度を参考にしたもので、御誓文の精神を具体的な統治機構に反映させようとした試みでした。
また、御誓文は明治天皇が神々に誓う形式をとっていたため、単なる政治文書以上の重みを持ちました。
宗教的・儀礼的な意味を込めることで、国民や諸藩に対して「天皇が神の前で約束した方針である」という説得力を与えたのです。この形式は、当時の日本社会において非常に効果的な政治的手法でした。
さらに、御誓文は長い間、新政府の基本理念として引用され続けました。明治天皇自身も「国家の根本精神」として重視し、政治演説や公式の場でたびたびその理念に言及しています。
これにより御誓文は、一時的なスローガンに終わらず、国づくりの象徴的な存在として明治時代を通じて生き続けたといえます。
以上のように、五箇条の御誓文は制定当時の混乱を鎮めるだけでなく、制度改革や国の統治構造にも影響を及ぼし、長期的に新国家の理念を支える役割を果たしました。
その存在感は、まさに「近代日本の出発点」と呼ぶにふさわしいものでした。