日本仏教の歴史を語る上で欠かすことのできない人物のひとりが、唐の高僧・鑑真(がんじん)です。彼は奈良時代、日本に正式な戒律を伝えたことで知られています。しかし、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。
渡航の試みは幾度も失敗し、その過程で彼は失明するという大きな苦難に直面します。さらに、弟子の中には裏切り者もいたと伝えられています。それでも彼は使命を諦めることなく、日本に渡ることに成功しました。
この記事では、鑑真がなぜ日本を目指したのか、そして「裏切り者」の存在や失明の事実を含めて整理しながら、その意義を分かりやすく解説していきます。
鑑真とは何者だったのか
唐代の高僧としての地位
鑑真は688年に中国・揚州で生まれました。若い頃から仏教に深く帰依し、特に戒律の研究に力を注ぎました。唐代は仏教が盛んに発展した時代であり、多くの高僧が現れましたが、その中でも鑑真は戒律の専門家として特に高い評価を受けていました。
当時の戒律は僧侶の規範を整えるうえで不可欠なものであり、その正しい伝授は仏教界の安定に直結していました。鑑真はその分野で第一人者とされ、各地から弟子が集まるほどの存在になっていきます。
鑑真の宗教的使命
鑑真が生涯を通じて重視したのは、正しい戒律の伝授と実践でした。戒律は仏教徒にとって、単なる規則ではなく、修行者として心を清め悟りに至るための道しるべです。
唐では仏教が広く信仰される一方で、流派の違いや地域の事情によって戒律の実践が不統一になることもありました。鑑真はその乱れを正し、正統な戒律を広める使命を強く感じていたのです。この姿勢が、後に日本への渡航を決断する大きな背景にもつながっていきます。
なぜ日本を目指したのか
日本の仏教界の課題
奈良時代の日本では、仏教が国の保護を受けて大きく発展していました。しかしながら、仏教の根幹である「受戒(正式な戒律を授かること)」の仕組みが十分に整っていませんでした。戒律を正しく授けられる僧がいなかったため、多くの僧侶が形式的に出家していたものの、その修行の基盤があいまいな状態だったのです。
この状況は、仏教を国の統治や文化の支えにしようとする朝廷にとっても深刻な問題でした。僧侶の質が確保できなければ、仏教の権威も揺らぎかねなかったからです。
鑑真への要請
こうした問題を解決するため、日本から唐に渡った僧侶・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、鑑真のもとを訪ねます。二人は、日本に正式な戒律を伝えてほしいと強く依頼しました。
当初、鑑真は「自分が行くのは難しいだろう」と考えましたが、弟子や周囲の僧侶が「この使命を果たせるのは鑑真しかいない」と後押ししました。最終的に彼はその要請を受け入れ、日本への渡航を決意します。これは、自らの使命である「正しい戒律の普及」に日本を含めるという、大きな挑戦でもありました。
度重なる渡航失敗
鑑真は、唐から日本へ渡ろうと6度にわたって試みました。しかし、そのうち5回は失敗に終わります。理由はさまざまでした。
- 自然の脅威:当時の船旅は非常に危険で、台風や暴風雨に遭って難破することもしばしばありました。
- 船の損壊:設備や技術が十分でなく、長距離航海の途中で船が破損するケースもありました。
- 政治的障害:唐の国内事情や外交関係の影響で、渡航が許されないこともありました。
裏切り者の存在
鑑真が日本を目指すうえで立ちはだかった壁は、嵐や船の損壊といった自然の脅威だけではありませんでした。人の思惑による妨害、すなわち「裏切り」も大きな要因だったと伝えられています。
弟子の中には、師の理想に心から共鳴する者もいれば、長く続く渡航計画に疲弊し、不安を募らせる者もいました。航海は命懸けの挑戦であり、成功する保証もありません。唐の当局も国外渡航に厳しい制限を設けており、下手をすれば「国法違反」として罰せられる危険すらありました。こうした恐れが、一部の弟子に「師の理想よりも自分の安全を優先したい」という気持ちを生み出したのです。
その結果、ある弟子が当局に渡航計画を密告しました。密告はただの報告ではなく、国家の取り締まりを呼び込む強烈な妨害行為でした。当局が動けば、船は押収され、同行者は監視され、渡航の可能性そのものが断たれてしまいます。鑑真が積み上げてきた準備や弟子たちの努力は一瞬で水泡に帰し、計画は根本から崩れ去りました。
この裏切りは、単に渡航を妨げただけでなく、師弟関係という信頼の絆をも打ち砕く出来事でした。師の志を理解していたはずの弟子が、恐怖と利害の前に翻り、仲間を危険にさらす行動に出たのです。残された弟子たちは動揺し、師に従うべきか迷う者も出たと伝えられています。
それでも鑑真は、動揺する弟子たちを責めるのではなく、静かに「日本に渡り、正しい戒律を伝えるという使命は揺らがない」と語ったとされています。この言葉は、裏切りに打ちひしがれた弟子たちに再び希望を与えました。結果的に、裏切り者の存在は大きな挫折をもたらしながらも、鑑真の意志の強さを逆に際立たせる出来事となったのです。
失明という苦難
失明の原因
度重なる渡航の失敗と長期にわたる試練の中で、鑑真は両目の視力を失ってしまいます。原因としては、航海中に患った眼病や、加齢による体調の悪化が考えられています。唐代の医療では治療法も限られていたため、失明は避けられませんでした。
視力を失うことは、当時の僧侶にとって重大な障害でした。経典を読むことも、弟子を直接導くことも難しくなり、師としての役割を果たす上で大きな試練となったのです。
失明後の心境と覚悟
それでも鑑真は、日本へ渡る意志を捨てませんでした。弟子や信者たちが失望しかけると、彼はむしろ毅然とした態度で「使命を果たすまであきらめてはならない」と励ましたと伝えられています。
視覚を失った後も、彼は声による指導や精神的支えを続けました。その姿は弟子たちにとって大きな力となり、「師がこれほどの覚悟を持つのだから、私たちも従うべきだ」と決意を新たにする者が増えました。
日本到着とその後の影響
6度目の成功
天平勝宝5年(753年)、ついに6度目の渡航が成功し、鑑真は日本に到着します。奈良の都では朝廷や僧侶たちが大いに歓迎しました。幾度もの失敗を乗り越え、失明という大きな障害を抱えながらも日本に来た鑑真の姿は、多くの人に感銘を与えたのです。
戒律伝来の意義
鑑真は日本で正式に戒壇を設け、僧侶たちに正しい戒律を授けました。これにより、日本仏教の制度的基盤が整えられることになりました。
それまで曖昧だった出家や受戒の仕組みが明確化され、日本仏教は「形式」から「本格的な修行」へと大きく前進しました。唐から伝わった正統な戒律は、日本の仏教界にとって欠かせない柱となったのです。
鑑真の晩年と遺産
晩年の鑑真は、奈良に唐招提寺(とうしょうだいじ)を建立しました。そこは彼の教えを受け継ぐ拠点となり、現在も日本仏教文化の重要な遺産として残されています。
また、仏教だけでなく建築技術や医学、芸術など、多方面で唐文化を日本に伝えた点も見逃せません。彼の来日は、日本と中国の交流史においても大きな意味を持ちました。
鑑真のエピソードに見る普遍的な心理
鑑真の歩みを振り返ると、彼が日本にもたらしたのは単に「戒律」だけではありませんでした。医薬の知識や彫刻・建築といった唐の最新文化も持ち込み、後世の日本文化に大きな刺激を与えました。実際、鑑真は医薬にも通じており、渡来後は病人の治療や薬草の知識の普及にも尽力したと記録されています。
また、唐招提寺に残る塑像や建築様式は、奈良時代の美術・工芸の発展に大きな影響を与えました。つまり彼の渡来は、宗教改革にとどまらず、日本社会全体を豊かにする文化交流の架け橋でもあったのです。
数々の困難を超えて来日した鑑真の姿は、信念を持って挑戦し続けることの大切さを示すと同時に、「異文化との出会いが新しい価値を生み出す」という普遍的な真理を私たちに伝え続けています。