江戸時代、日本から遠く離れたロシアに漂着し、長い年月をかけて帰国した人物がいます。
その名は大黒屋光太夫。
彼の漂流譚は、当時の日本人にとって未知の世界であったヨーロッパやロシアとの出会いの物語でもあります。
この記事では、大黒屋光太夫の生涯を順を追ってわかりやすく解説します。
大黒屋光太夫とは
出身地と生い立ち
大黒屋光太夫は、伊勢国白子(現在の三重県鈴鹿市)で生まれました。彼は回船業に関わる家の出身で、幼いころから船に親しむ環境にありました。
江戸時代中期、日本各地では海運業が盛んに行われており、光太夫もその一員として活躍していました。
江戸時代の海運業と光太夫の立場
当時の日本では、大坂と江戸を結ぶ航路や、北海道方面との交易が経済を支える重要な要素でした。
光太夫は「北前船」と呼ばれる大型商船に関わり、物資の輸送に従事していました。
江戸や大坂に物資を届けることは、地方の商人にとっても大きな利益につながり、光太夫はそうした航路に挑む一人の船頭でした。
漂流の経緯
伊勢から江戸へ向かう航海
1782年、光太夫は船頭として伊勢から江戸へ向かう航海に出ました。
積み荷は米や木材など、江戸の生活に欠かせない物資でした。しかし航海の途中で嵐に遭遇し、船は進路を見失ってしまいます。
嵐による漂流とアリューシャン列島への漂着
嵐は数日間にわたり続き、船は太平洋をさまよい続けました。
やがて船はアリューシャン列島に流れ着きます。そこは現在のロシア領にあたり、当時の日本人にとってまったく未知の土地でした。
見知らぬ土地にたどり着いた光太夫たちは、言葉も文化も異なる人々との接触を余儀なくされました。
過酷な漂流生活と生存者
漂流の最中、食料や水が不足し、多くの乗組員が命を落としました。最初に出航した17人のうち、生き延びたのはわずか数名でした。
光太夫自身も極限の環境を経験しながら、仲間と力を合わせて生き延びることができました。
ロシアでの経験
カムチャツカでの暮らし
漂着した光太夫たちは、荒れ狂う海を越え、ようやくたどり着いたカムチャツカ半島で現地の人々に救われました。
そこは日本とはまったく異なる自然環境で、冬には雪と氷に閉ざされ、夏でも冷涼な気候が続きます。人々は毛皮をまとい、狩猟や漁業を生業としながら暮らしていました。
最初、光太夫たちは言葉も通じず、異国の漂着者として疑いの目を向けられました。捕虜のように扱われることもあり、不安の中で日々を過ごしました。
しかしやがて、現地の人々やロシア人役人から食糧や住まいを与えられ、生活をともにするようになります。
彼らは寒さをしのぐ方法や保存食の作り方を学び、徐々に新しい土地での暮らしに適応していきました。
首都ペテルブルクへの長い旅路
カムチャツカでの暮らしに慣れつつも、光太夫たちの望みはあくまで帰国にありました。
その願いをかなえるためには、当時のロシア帝国の中心であるペテルブルクに行き、直接女帝に訴える必要がありました。
しかし、その道のりは容易ではありません。シベリアは広大で、果てしないタイガ(針葉樹林)やツンドラ地帯を越えなければなりませんでした。冬の寒さは氷点下数十度にも達し、雪深い道を馬そりで進むことが日常でした。
川を渡るときには船を使い、凍結した道では氷の上を滑るように進みました。食糧不足や病気に苦しみながら、数年をかけてようやくペテルブルクへ到着することができたのです。
長旅の途中で彼らはさまざまな人々と出会いました。役人や修道士、商人などが彼らを助け、ときには興味深げに異国人として扱いました。
日本から来た漂流者の話は、ロシアの人々にとっても珍しいものであり、旅の道中で少しずつ注目を集めていったのです。
エカチェリーナ2世との謁見
長い旅路の果てに、光太夫はついに女帝エカチェリーナ2世の前に立ちました。
広大な宮殿の中で、絢爛豪華な衣装をまとった女帝を目の当たりにした光太夫は、その威厳に圧倒されたと伝えられています。
謁見の場では、通訳を介して漂流の経緯、日本への帰国の願いが丁寧に説明されました。女帝は熱心に耳を傾け、光太夫たちが数年にわたり生き延びてきた困難な経緯に深い関心を示しました。
また、日本という未知の国に対しても強い興味を抱いたといわれています。
その結果、女帝の特別な配慮により、光太夫たちには日本への帰国が許されることになりました。鎖国下の日本に戻ることがどれほど困難であるかを理解したうえでの決断であり、この措置は当時としては極めて異例でした。
光太夫の熱意と誠実な訴え、そして彼を支援した人々の協力があってこそ実現した出来事だったのです。
日本への帰国
帰国が許されるまでの交渉
帰国が決まったとはいえ、すぐに日本へ戻れるわけではありませんでした。日本が鎖国体制を敷いていたため、外国からの帰国者をどのように扱うかは慎重に決める必要があったのです。
ロシア側でも、日本との交渉や準備に時間を要しました。光太夫は長い間待たされながらも、ついに帰国の船に乗ることを許されました。
長崎への到着と江戸での扱い
1792年、光太夫は仲間とともに長崎に到着しました。日本の役人たちは、国外に出た人々を厳しく取り調べるのが習わしでした。
光太夫も例外ではなく、長崎奉行による取り調べを受け、その後江戸に送られました。幕府は彼の体験談を詳しく聞き取り、それをもとにロシアの様子を記録しました。
晩年の生活と記録
帰国後の光太夫は、江戸に留め置かれる形で余生を過ごしました。故郷に戻ることは許されず、生活は決して自由ではありませんでした。
しかし、彼の体験談は「北槎聞略」としてまとめられ、日本人が初めて直接知ったロシアやヨーロッパの姿として貴重な記録となりました。
光太夫自身は1813年に亡くなりますが、その記録は後世に長く語り継がれることとなります。
光太夫の功績と歴史的意義
日本人初のロシア体験者としての意義
大黒屋光太夫は、日本人として初めてロシアの首都ペテルブルクに足を踏み入れ、ヨーロッパ文化を直接体験した人物でした。
江戸時代の日本にとって、西洋諸国の生活や制度は遠い世界の出来事でしたが、光太夫は自らの目でそれを見聞きし、具体的に語ることができました。このことは、当時の人々にとって大きな驚きと関心を呼びました。
ロシア・日本関係史における位置づけ
光太夫の漂流と帰国は、単なる個人の冒険にとどまらず、日露関係史の一幕として重要です。幕府は彼の報告を通じてロシアの存在を具体的に認識するようになりました。
また、ロシア側も日本への接触を模索する契機となり、その後の日露交流の伏線となりました。光太夫の行動は、鎖国体制下でありながら両国をつなぐ小さな橋渡しとなったのです。
『北槎聞略』に残された記録の価値
光太夫の体験は、医師であり学者であった桂川甫周によって『北槎聞略』という書物にまとめられました。この記録には、ロシアの地理や人々の暮らし、首都ペテルブルクの様子、さらには女帝エカチェリーナ2世との謁見までが詳しく描かれています。
江戸時代の日本において、これほど詳細にヨーロッパ事情を伝えた記録は極めて貴重でした。そのため、『北槎聞略』は後世の歴史研究においても重要な資料とされています。