知行国とは?中世日本の土地支配制度をわかりやすく解説

日本の中世史を学ぶと、荘園制度や守護大名の台頭といった言葉に出会います。その中でも、やや耳慣れない制度として登場するのが「知行国制」です。

知行国制は、平安時代後期から室町時代にかけて見られた土地支配の仕組みで、中央の有力貴族や寺社、さらには武家勢力にとって重要な収入源となりました。

しかし、荘園とどのように異なり、どのように運用されていたのかは、一般的な教科書では簡潔に触れられるだけで、詳細がわかりにくいかもしれません。

そこで今回は、知行国制の成立から仕組み、そしてその衰退までをたどり、当時の土地支配の実態をできるだけ分かりやすく解説していきます。

知行国とは何か

「知行国」の基本的な意味

知行国とは、国全体からあがる収益を、特定の人物や寺社に与える制度を指します。ここでいう「知行」とは、土地から得られる収益や支配権を意味します。

つまり、知行国を与えられた者は、その国の収益を受け取る権利を持つことになります。

ただし、必ずしもその国全体を直接統治したわけではなく、実際の行政や警察的役割は別の役人や武士に任されていました。

この制度は、朝廷や院政の時代において、有力な貴族や寺社に対して経済的な恩恵を与える手段として発達しました。

国司の官職が実際の行政権から切り離されて形骸化するなかで、収益を分け与える形が広がっていったのです。

知行国と荘園制度の違い

荘園制度と知行国制は、どちらも土地からの収益を特定の人物や組織が得る仕組みでしたが、性質は大きく異なります。

荘園は村落単位の私有地であり、地方の細かな単位ごとに支配が行われました。

一方、知行国は「国」という大きな単位を対象にしており、そこで得られる収益をまとめて受け取ることができました。

つまり、荘園は細分化された土地の支配であるのに対し、知行国は国全体の収益権を与えるという、より大規模な制度でした。

この違いを理解することで、中世日本の土地制度の多層性がより鮮明に見えてきます。

知行国制の成立と背景

平安時代後期からの展開

知行国制が姿を見せ始めたのは、平安時代後期の院政期です。

院政を行った上皇や法皇は、政治の実権を握る一方で、有力貴族や寺社を味方につける必要がありました。

そのために、国から得られる収益を特定の人物に分与し、経済的な基盤を与える仕組みが整えられていきます。

本来、国の運営は国司という役職が担っていましたが、次第にその役割は形だけのものとなり、実際には収益を得る権利を譲渡する形が一般化しました。

こうした流れの中で、知行国制が広がっていったのです。

守護・地頭との関わり

鎌倉時代に入ると、武士が全国に配置された守護や地頭として登場し、土地支配の現場を担うようになります。

知行国の収益を与えられた者は必ずしも現地で統治するわけではなく、実際の管理や徴収は守護や地頭に任されることが多くありました。

この結果、知行国主は収益を受け取る立場にとどまり、現地での支配は武士が行うという二重構造が生まれます。土地支配の複雑さは、この時代の社会を理解する上で重要な要素といえるでしょう。

知行国制の仕組み

知行国主の権利と義務

知行国を与えられた者を知行国主と呼びます。知行国主は国からの収益、具体的には租税や年貢を得る権利を持ちました。

ただし、国そのものを自由に支配する権力を持つわけではなく、あくまで経済的な恩恵が中心でした。

一方で、知行国主は朝廷や幕府に対して一定の奉仕を果たすことも期待されました。

例えば、朝廷の行事や寺社の運営費を支えるなど、国家運営に必要な財政面での役割を担うこともあったのです。

知行国の運営と実態

国司という官職は依然として存在しましたが、実際には国司が直接統治することは少なくなり、収益だけが知行国主のもとに流れる仕組みとなりました。

現地での行政や治安維持は、守護や地頭が担当することが多く、国司は名目的な存在に変わっていきます。

こうした体制は、中央から見れば有力者を抱き込む手段であり、地方から見れば武士が支配を強める契機となりました。

つまり、知行国制は中央と地方、貴族と武士の力関係を映し出す象徴的な制度だったのです。

知行国制の発展と衰退

鎌倉時代から室町時代にかけて

鎌倉幕府の成立以降も、知行国制は存続し続けました。

幕府は武家政権として土地支配を強めましたが、朝廷の伝統的な仕組みも同時に維持されており、知行国制はその一環として利用され続けたのです。

特に室町時代になると、知行国の授与は有力な公家や寺社に加え、武家に対しても行われるようになります。

幕府や朝廷に忠誠を示した人物に対し、恩賞として国の収益権を与えるという性格が強まっていきました。これにより、知行国は権力層を結びつける手段として機能したのです。

戦国時代への移行

しかし、戦国時代に入ると状況は大きく変わります。各地の戦国大名が実力を背景に領国支配を確立していく中で、知行国制は実効性を失っていきました。

国単位で収益を分与する仕組みは、大名による直接的な支配と矛盾するからです。

結果として、知行国制は名目的な存在となり、実際の支配は戦国大名によって掌握されました。こうして知行国制は歴史の表舞台から退き、近世に至るまでに消滅していきました。

知行国にまつわるエピソード

知行国制は制度そのものが複雑で抽象的に語られがちですが、具体的な事例を挙げるとぐっと理解しやすくなります。ここでは、知行国に関わるいくつかの興味深い話題を紹介します。

まず、知行国を与えられた者の中には、名だたる公家や有力寺社が多数含まれていました。代表的な例として、摂関家である藤原氏の一族や、延暦寺・興福寺といった大寺院が挙げられます。

これらの存在は、経済的な支えを得ることで政治的な影響力を強めることができました。

また、知行国制は一国全体が対象であるため、場合によってはその国全体の収益が長期的に特定の家系に集中することもありました。これにより、ある特定の家門が長く繁栄を維持する一因にもなったのです。

一方で、知行国が実際にどの程度の利益をもたらしたのかは、時代や地域によって大きく差がありました。

豊かな国であれば大きな収入源となりましたが、荒廃や戦乱に見舞われた国では期待したほどの利益が得られないこともあったと伝えられています。

制度は一様であっても、その実態には地域性や時代性が大きく影響していたといえるでしょう。

さらに、知行国制をめぐる対立も時折記録に残っています。収益権の所在をめぐり、貴族と守護、あるいは寺社と武士の間で争いが生じることがありました。

土地をめぐる利害の衝突は、中世社会における権力関係を映し出す鏡のような存在だったと考えられます。

このように、知行国制は単なる制度的枠組みにとどまらず、具体的な人物や組織、地域社会の運命を左右する重要な要素として機能していたのです。