戊辰戦争をわかりやすく説明!なぜ起きた?誰と誰が戦った?

戊辰戦争は、1868年から1869年にかけて起きた、旧幕府軍と新政府軍の戦いです。

江戸幕府の時代が終わり、明治新政府が誕生する過程で、日本中を巻き込んで戦われました。

この戦いは単なる「権力争い」ではありませんでした。鎖国から開国へと急激に変わる時代背景の中で、日本の将来をどう築いていくかをめぐる対立でもあったのです。

つまり、日本が近代国家へと進む大きなきっかけになった出来事といえます。

戊辰戦争はなぜ起きたか?

戊辰戦争の背景には、長年続いてきた江戸幕府の政治体制が大きく揺らいだことがあります。

幕府の力が弱まる一方で、外国からの強い圧力や、国内での「国をどう導くべきか」をめぐる考え方の違いが広がっていきました。

日本全体が大きな選択を迫られた結果、武力による対立へと発展していったのです。ここでは、その原因を段階的に見ていきましょう。

1.幕府の権威低下と黒船来航

江戸幕府は1603年に徳川家康が開いて以来、約260年にわたり日本を統治してきました。長期間にわたる安定は確かに保たれましたが、19世紀に入ると社会の歪みが目立つようになります。

  • 財政難:米を中心とした年貢制度に依存していたため、物価変動に弱く、幕府や藩の財政は慢性的に赤字でした。
  • 農村の困窮:度重なる飢饉や重い年貢により、農民の生活は苦しく、一揆や打ちこわしが各地で発生しました。
  • 指導力の低下:将軍の権威が弱まり、幕府の政策決定にまとまりがなくなっていました。

そんな中、1853年にアメリカのペリー提督が黒船を率いて来航します。幕府は強大な軍事力を背景に開国を迫られ、翌1854年に日米和親条約を結びました。

その後、イギリスやロシアなどとも次々に条約を結びますが、それらは関税自主権を欠く「不平等条約」でした。この結果、幕府の無力さが露呈し、国民の間に大きな不満が広がりました。

2.開国がもたらした混乱と対立

開国によって日本は国際社会に踏み出しましたが、それは国内に深刻な混乱を招きました。

  • 経済的混乱:外国との貿易が急に始まったため、日本から大量の金が海外へ流出しました。また、生糸や茶といった輸出品の価格は上がる一方、日常品の物価も高騰し、庶民の生活はますます苦しくなりました。
  • 政治的混乱:幕府が結んだ条約が「国の自主性を失わせるものだ」と批判され、幕府の信頼は失墜しました。

こうした中で「外国の技術を取り入れて近代化を進めるべきだ」という開国派と、「外国を打ち払って日本を守るべきだ」という攘夷派が激しく対立します。

これが全国の藩の立場を二分し、薩摩や長州などの有力藩が幕府に反発する動きへとつながっていきました。

3.大政奉還と王政復古

幕府の権威低下が進む中、1867年に15代将軍・徳川慶喜は「大政奉還」を行いました。これは政権を朝廷に返上するというもので、一見すると平和的な解決に見えました。

しかし実際には「徳川家が引き続き政治の中心に残るのか」「完全に新しい政府を作るのか」で意見が分かれ、対立は解消されませんでした。

その後、薩摩藩・長州藩など倒幕派の勢力は「徳川家を政治から排除する」ことを狙い、1868年に「王政復古の大号令」を発布します。

これにより、天皇を中心とする新政府の成立が正式に宣言されました。

これに反発した旧幕府勢力は、自らの地位と体制を守るために武力で抵抗します。こうして戊辰戦争が始まり、日本全国を巻き込む大規模な内戦へと発展していったのです。

戊辰戦争の主な戦いと流れ

戊辰戦争は全国各地で戦われましたが、その中でも特に重要とされる戦いと出来事があります。ここでは、開戦から終結までの流れを代表的な戦いを通して見ていきましょう。

鳥羽・伏見の戦い

戊辰戦争の最初の大きな戦いは、1868年1月3日から6日にかけて京都近郊で起こった「鳥羽・伏見の戦い」です。

旧幕府軍は約1万5千から2万人の兵力を動員し、京都にいる新政府軍を攻撃して主導権を握ろうとしました。

ところが、新政府軍は数では劣っていたものの、薩摩藩や長州藩が導入した西洋式の最新兵器を使っていました。特に、射程が長く命中精度の高い「ミニエー銃」や威力の大きい大砲が戦場で大きな差を生みます。

さらに決定的だったのが、天皇の軍隊であることを示す「錦の御旗(にしきのみはた)」の掲揚でした。この旗は「朝廷の正義の軍」を意味し、それを敵に回すことは「逆賊」とされることを意味しました。これにより旧幕府軍の士気は一気に崩れ、多くの兵が戦意を失って退却します。

結局、新政府軍が勝利し、旧幕府軍は総崩れとなって江戸へ退却しました。この戦いが戊辰戦争の始まりであり、以後の戦いの趨勢を決定づける重要な出来事となったのです。

江戸城無血開城

鳥羽・伏見で敗北した旧幕府軍でしたが、江戸にはまだ多くの兵力や武器が残っていました。そのため、もし江戸で戦闘になれば、江戸の町は火の海となり、数十万人の市民が巻き込まれる危険がありました。

ここで大きな役割を果たしたのが、新政府軍の西郷隆盛と、旧幕府軍の中心人物である勝海舟です。勝は江戸の人々の生活を守るために徹底抗戦を避け、西郷と直接交渉を行いました。

両者の話し合いの結果、江戸城を戦わずに明け渡す「江戸城無血開城」が実現します。1868年4月11日、旧幕府の将軍・徳川慶喜は江戸城を新政府に引き渡しました。

これは日本史の中でも極めて珍しい「平和的な城の明け渡し」であり、もし交渉が失敗していれば江戸は大惨事になっていたと考えられています。江戸が守られた背景には、勝と西郷の人間的な信頼関係もあったといわれています。

東北・会津戦争

江戸での戦いが回避された後も、全国の戦火は続きました。特に東北地方では多くの藩が「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を結び、新政府に対抗します。

これは会津藩・庄内藩を中心に、東北諸藩が「幕府を守る正義は自分たちにある」と考えて結成されたものでした。

その中でも会津藩は幕府に忠誠を誓っていたため、新政府から厳しく攻められます。1868年秋の会津戦争では、藩士だけでなく、少年兵や女性までもが戦いに参加しました。

特に「白虎隊(びゃっこたい)」と呼ばれる16〜17歳の若い藩士の部隊は、籠城戦の中で悲劇的な最期を迎えます。飯盛山で自害した白虎隊士たちの物語は、後に幕末史の象徴的な出来事として語り継がれることになりました。

会津の人々は勇敢に戦いましたが、圧倒的な兵力を持つ新政府軍に敗れ、藩は厳しい処分を受けました。これにより、旧幕府派の東北諸藩は力を失い、新政府の統制が一層強まります。

函館戦争(五稜郭の戦い)

戊辰戦争の最終局面は、北海道の函館で繰り広げられた「函館戦争」でした。旧幕府海軍を率いた榎本武揚や新選組の副長・土方歳三らは、江戸から船で北へ脱出し、蝦夷地(北海道)に拠点を築きました。

彼らは「蝦夷共和国」を宣言し、五稜郭という西洋式の星形要塞を本拠にして新政府に最後の抵抗を試みます。榎本はフランスから学んだ海軍技術を活かし、西洋式の艦隊を持っていたため、一時は新政府軍を苦しめました。

しかし、新政府軍は最新鋭の軍艦「甲鉄(こうてつ)」を投入し、圧倒的な戦力差を見せつけます。1869年5月、土方歳三が戦死し、五稜郭も陥落。榎本は降伏を余儀なくされました。

この函館戦争をもって、戊辰戦争は完全に終結します。日本全土が明治新政府の支配下に入り、江戸時代から明治時代への大きな転換が確定した瞬間でした。

戊辰戦争がもたらした影響

戊辰戦争は単なる内戦ではなく、日本の歴史を大きく変える分岐点となりました。戦いの勝敗が決まったことで、政治の仕組みや社会の在り方が大きく変わり、近代国家への道が一気に開かれたのです。ここでは、戊辰戦争が日本にもたらした三つの大きな変化について見ていきましょう。

明治新政府による統一国家の形成

戊辰戦争で新政府軍が勝利したことで、日本は江戸幕府の支配から完全に解放され、実質的に全国をひとつの政府のもとにまとめることができました。

それまでの日本は、260年以上にわたり「幕府と藩」が並び立つ体制で運営されており、中央から地方に対して強い命令を出すことは難しい状況でした。

しかし、戊辰戦争後に誕生した明治新政府は、天皇を中心とする中央集権体制を築きました。これにより、日本全体をひとつの大きな政府が管理できる仕組みが整えられていったのです。

その中で特に大きな改革がいくつも行われました。

  • 廃藩置県(はいはんちけん):藩を廃止して県に統一し、地方の支配を中央政府が直接行えるようにしました。
  • 徴兵制度:武士だけでなく、全国の若者が兵士として国を守る仕組みを作りました。これにより「国民皆兵」の考えが広がりました。
  • 学制の発布:全国に学校制度を整え、身分に関わらず教育を受けられるようにしました。

これらの改革はすべて、戊辰戦争によって幕府が倒れ、新政府が権力を握ったからこそ実現できたのです。まさに日本の近代国家の第一歩といえるでしょう。

武士階級の没落と社会の変化

戊辰戦争の終結は、日本の社会構造を大きく変えるきっかけになりました。最も大きな影響を受けたのは「武士階級」です。

江戸時代までは、武士が支配階級として特別な立場にあり、俸禄(ほうろく=給料のようなもの)を藩から受け取って生活していました。しかし、新政府は身分制度を次第に撤廃し、武士の特権を廃止していきます。武士は俸禄を失い、多くが職を探して商人や役人、教師などへ転身せざるを得なくなりました。

一方で、庶民にとっては身分制度がなくなったことで、新しい社会の担い手になれる道が開かれました。農民や町人の子どもでも、努力すれば学問を学び、役人や軍人になることが可能になったのです。

つまり、戊辰戦争は「武士の時代の終わり」と「庶民が主役になれる社会の始まり」を同時に告げる出来事だったといえます。

日本の近代化への加速

戊辰戦争の経験は、日本に「外国の力に遅れてはいけない」という強い意識を植え付けました。戦いの中でも、新政府軍は最新の西洋式兵器を導入し、旧幕府軍との差を見せつけました。これが、新政府に「西洋技術を学び、取り入れなければ国を守れない」という確信を持たせたのです。

その後の明治新政府は、西洋から積極的に技術や制度を導入していきました。

  • 鉄道の開通(1872年):東京と横浜を結ぶ鉄道が開業し、交通と経済の発展が進みました。
  • 工場の設立:紡績工場などの産業が生まれ、日本の工業化の基盤が作られました。
  • 教育制度の整備:全国に学校が広がり、読み書きや算術を学ぶ機会が増えました。

このように、日本は戊辰戦争を経て一気に近代化への道を進み出したのです。もし戊辰戦争がなければ、こうした改革はもっと遅れていたかもしれません。

戊辰戦争の代償と残された課題

戊辰戦争は約1年半という短い期間に終結しましたが、日本全国を巻き込み、多くの犠牲を生みました。

戦死者は双方を合わせて数万人にのぼり、特に東北や会津、函館などでは住民を含む甚大な被害が出ました。会津戦争での白虎隊や、函館戦争での榎本武揚らの奮闘は、後世に語り継がれる悲劇や逸話を残しています。

また、戊辰戦争の影響は地域ごとに大きな違いがありました。新政府側についた藩は改革の中で発展する道を開いた一方、旧幕府側についた藩は処分や財政難に苦しみました。この地域差は、その後の明治時代の地方発展の格差にもつながっていきます。

こうして戊辰戦争は単なる政権交代の戦いにとどまらず、日本社会全体の姿を根本から変えた歴史的な出来事だったのです。