バテレン追放令とは、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が出した、キリスト教の宣教師を国外に追放することを命じた法令です。
「バテレン(伴天連)」とはポルトガル語で「神父」を意味する言葉で、日本ではキリスト教宣教師を指す言葉として広まりました。
本稿では、バテレン追放令がなぜ出されたのかという目的と内容、さらには法令としては失敗となってしまった理由について、わかりやすく解説します。
バテレン追放令の目的
【目的1】宗教的影響を抑えるため
豊臣秀吉がバテレン追放令を出した最大の理由のひとつは、キリスト教が日本社会の秩序を揺るがす存在になりつつあったことです。
キリスト教は「唯一神への信仰」を重んじる宗教で、信者は神への忠誠を第一とします。
これは、当時の日本社会を支えていた仏教や神道に基づく伝統的な信仰、そして主君への忠誠心としばしば衝突しました。
例えば、寺社への参詣を拒む、祖先の供養を否定する、といった行動が問題視されるようになります。
さらに、キリスト教が広がることで、大名や武士までもが改宗し始めました。もし有力な大名が信仰を優先し、秀吉への忠誠を二の次にするような事態が広がれば、統一国家の基盤が揺らぐ危険があります。
秀吉は「宗教が支配者の権威に影響する」ことを強く警戒し、早い段階で布教を制限しようとしたのです。
【目的2】外国勢力の進出を防ぐため
もう一つの重要な目的は、ヨーロッパ列強による植民地化を防ぐことでした。
16世紀の世界では、大航海時代を経てスペインやポルトガルがアジアやアメリカ大陸に次々と進出し、現地の国々を植民地化していました。
フィリピンやインドの一部がすでに支配下に置かれていたことを、秀吉も情報として把握していたと考えられています。
その過程では、まず宣教師が現地に入り込み、住民をキリスト教に改宗させ、やがて貿易や軍事の介入につなげるという手法が取られていました。
秀吉は、「布教=植民地化の前触れ」と理解しており、日本が同じ運命をたどることを強く警戒しました。
また、キリシタン大名が外国勢力と結びつくことで、中央権力に逆らう勢力を作り出す可能性もありました。
実際に長崎はイエズス会に寄進され、教会の支配下に置かれていた時期があり、これを見た秀吉は「日本の土地が外国の宗教勢力に奪われる」という強い危機感を抱いたのです。
バテレン追放令の内容
1.宣教師の国外追放と布教禁止
バテレン追放令の中心は、宣教師(特にイエズス会の神父たち)を日本から追放することでした。秀吉は彼らの活動が、日本の社会秩序を乱すと考えました。
この命令によって、新たな布教活動や教会の建設は禁じられ、既存の教会も破壊される危険にさらされました。
ただし実際には、命令を厳しく徹底することは難しく、多くの宣教師は大名や信者に匿われ、密かに活動を続けました。
秀吉自身も一部の宣教師に寛容な態度を見せることがあり、命令の実効性は限定的でした。
2.信者への直接的な弾圧は回避
注目すべき点は、信者そのものを罰するような規定が明確には盛り込まれなかったことです。
既に九州を中心に数十万人もの信者が存在しており、彼らを一斉に取り締まると社会的な混乱を招く恐れがありました。
そのため追放令は「布教者を排除するが、すでに信仰している人々は黙認する」という曖昧な形で出されました。これは、宗教的対立を一気に激化させないための妥協策だったといえます。
3.南蛮貿易の存続
バテレン追放令が一見厳しい命令でありながらも貿易を禁止しなかったのは、秀吉にとって南蛮貿易が欠かせない利益源だったからです。
鉄砲・火薬・ガラス製品・絹織物といったヨーロッパや中国経由の交易品は、日本の軍事力や経済発展にとって非常に重要でした。
そのため「布教は排除するが、貿易は継続する」という方針が明確に打ち出され、キリスト教布教と貿易活動を切り離そうとしたのです。このあたりに、秀吉の現実的な政治感覚が表れています。
4.奴隷売買の禁止
バテレン追放令の中には、キリスト教布教そのもの以外の問題にも触れた条項がありました。その一つが「日本人を海外に奴隷として売ることを禁ずる」という内容です。
当時、一部の商人や外国人が日本人を奴隷として海外に連れ出していたことが問題視されていました。
秀吉はこれを「人倫にもとる」として厳しく批判し、この行為を禁じることで民衆の支持を得ようとしたとも言われています。
ここには宗教対策以上に、為政者としての支配権を守ろうとする意図も見え隠れします。
バテレン追放令が失敗した理由
【失敗理由1】命令の徹底が不十分だった
バテレン追放令は表向きには「宣教師の国外追放」を命じたものの、その実行は徹底されませんでした。
最大の理由は、豊臣秀吉自身が南蛮貿易を非常に重視していたからです。鉄砲や火薬といった軍事的に欠かせない物資はもちろん、絹織物やガラス製品などの舶来品は経済的にも魅力的でした。
もし宣教師を完全に国外に追放すれば、貿易相手であるポルトガル人やスペイン人との関係が悪化し、交易が滞る危険があったのです。
そのため、秀吉は命令を発布しつつも実際には多くの宣教師を暗黙のうちに容認し、彼らは各地の信者や大名の庇護のもと活動を続けました。
結果的に「追放令」としての実効性は非常に低いものとなりました。
【失敗理由2】大名の保護と信者の拡大
特に九州地方のキリシタン大名は宣教師を積極的に保護し、領内での布教を後押ししました。
大名にとってキリスト教は、ヨーロッパとの交易を有利に進めるための手段でもありました。キリスト教徒になることで鉄砲や火薬の供給を受けやすくなり、軍事的優位を確保できると考えられていたのです。
また、庶民や武士の間でもキリスト教は「新しい信仰」として受け入れられ、共同体の絆を強める役割を果たしました。
すでに社会に浸透していた信仰を中央からの命令だけで止めることは難しく、信者の数は追放令発布後も増加し続けました。
こうした地域的な事情が、追放令を「形だけの布告」にしてしまった要因の一つです。
その後の展開
徳川家康以降の対キリスト教政策
秀吉の死後、政権を握った徳川家康は当初、キリスト教に比較的寛容でした。貿易を重視し、外国との関係を利用するために布教をある程度認めていたのです。
しかし、家康の死後に政権を継いだ秀忠・家光の時代になると、禁教政策が一気に強化されます。
1637年に起こった島原の乱(多くのキリシタン農民が参加した反乱)をきっかけに、幕府はキリスト教を徹底的に弾圧しました。
そして日本は鎖国へと進み、キリスト教は完全に地下に潜ることになります。
歴史的評価と現代的解釈
現代の歴史学では、バテレン追放令は「単なる宗教弾圧」ではなく、国内統治と国際関係を安定させるための政策と評価されています。
秀吉は必ずしも信仰そのものを嫌ったわけではなく、むしろ「貿易と結びついた布教」「日本人が海外に奴隷として売られる事件」といった現実的な問題に強く反応したと考えられています。
今日の視点から見れば、バテレン追放令は「日本が西洋列強の植民地になることを防いだ政策」として理解することもできます。
その一方で、信仰の自由を奪ったという点では批判的に見られる面もあります。