足利義昭は、室町幕府の最後の将軍であり、第15代将軍にあたります。
彼は将軍という名目上の最高権力者でありながら、実際には戦国大名の力に大きく左右される存在でした。特に織田信長との関わりが、義昭の人生を大きく左右しました。
信長によって将軍に擁立され、やがて信長と対立して追放されるまでの経緯は、日本の歴史における重要な転換点の一つです。
義昭は「室町幕府の最後の将軍」という象徴的な立場にあり、彼の生涯をたどることで、戦国時代から安土桃山時代にかけての権力構造の変化を理解することができます。
幼少期と出家生活
義昭は将軍家の一員として生まれましたが、幼いころから政治の表舞台に立つ予定はありませんでした。
当時の慣例として、将軍家の次男や三男は出家し、僧侶になることが多かったのです。義昭もその例に漏れず、若くして寺に入り、僧としての道を歩み始めました。
しかし、兄である第13代将軍・足利義輝が暗殺されると、状況は一変します。将軍家の血を引く人物として、義昭はにわかに政治の世界に引き戻されました。
僧侶として静かに過ごすはずの人生が、戦国時代の荒波に巻き込まれることになったのです。
将軍就任までの道
義昭が将軍になるまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。兄・義輝が暗殺されると、幕府の将軍職は空白となりました。
この混乱の中で、義昭は次の将軍候補として浮上します。しかし、自らの力だけで将軍に就任することは難しく、有力大名の支援が不可欠でした。
そこで登場したのが織田信長です。義昭は信長の軍事力に期待し、信長もまた義昭を利用して自らの権力基盤を固めようとしました。
二人は利害が一致し、信長の支援を受けて義昭は上洛します。そして1568年、ついに第15代将軍として就任しました。
義昭の将軍就任は、表面的には室町幕府の権威が回復したように見えました。
しかし実際には、将軍としての権力は大きく制限され、信長の後ろ盾なしにはその地位を維持することができなかったのです。
将軍としての活動
信長との協力体制の始まり
将軍に就任した義昭は、最初のうちは織田信長と良好な協力関係を築きました。信長の軍事力を背景に京都へ戻ったことで、長らく形骸化していた室町幕府が再び存在感を示すことになったのです。
義昭は朝廷や公家、寺社に対して積極的に働きかけ、将軍としての格式を整えようと努力しました。これにより、かつて失われかけていた「幕府の正統性」を一時的に取り戻すことができました。
実権を握る信長
ところが、その内実は決して盤石ではありませんでした。実際の政策決定や軍事行動の主導権は信長が握っており、義昭は形式上の最高権力者であるにもかかわらず、実権を持つことができませんでした。
信長は義昭を「傀儡」として利用する一方で、全国統一に向けて自らの方針を押し進めていきました。
義昭の不満と対立への兆し
義昭自身も、そうした状況に不満を募らせていきます。彼は本来、将軍として独立した権威を発揮したいと考えていましたが、現実には信長の軍事的後ろ盾なしでは何もできない状態でした。
次第に義昭は信長と距離を置き、他の勢力と接触し始めるようになります。ここから両者の関係は、協力から対立へと大きく転じ、義昭は追放されることとなります。
足利義昭はなぜ追放されたのか
将軍権限をめぐる対立
義昭が追放されるに至った背景には、いくつかの要因が複雑に絡み合っていました。第一の理由は、将軍権限をめぐる信長との対立です。義昭は「自分こそが将軍であり、信長はその補佐役に過ぎない」という立場を主張しました。
しかし信長は、自分の軍事力と政治力を背景に幕府を従わせる形を望みました。この根本的な立場の違いが、両者の関係を悪化させていったのです。
信長包囲網の形成
第二の理由は、義昭が反信長勢力と手を結んだことです。義昭は信長の力に対抗するため、武田信玄や朝倉義景、本願寺顕如、毛利輝元といった有力大名と次々に連携を図りました。
これが「信長包囲網」と呼ばれる大規模な同盟へと発展しました。義昭は将軍としての権威を利用して「信長を討つことは正当な行為である」と大義名分を与え、各地の大名を動かそうとしたのです。
包囲網の崩壊と孤立
しかし、信長は包囲網を一つ一つ崩していきました。武田信玄の病死や朝倉・浅井の滅亡、本願寺の弱体化などによって、義昭が依拠していた勢力は次々と衰退していきました。
将軍としての権威を掲げても、それを支える軍事力が不足していたため、義昭の目論見は成功しませんでした。
室町幕府の限界
第三の理由は、戦国時代という時代背景そのものにありました。室町幕府はすでに形骸化しており、将軍の命令に全国の大名が従う時代ではなくなっていました。
大名たちは軍事力や領地の経済力を背景に独自の支配を強めており、権威だけでは対抗できなかったのです。義昭の試みは、戦国という「実力の時代」にそぐわないものでした。
追放の決定的瞬間
これらの理由が重なった結果、義昭は信長にとって危険な存在と見なされ、ついに京都から追放されることになりました。1573年の槇島城の戦いで義昭は敗れ、都を追われたのです。
これによって室町幕府は事実上の終焉を迎えました。これは「形式的な権威にすがる将軍」と「実力で支配を広げる戦国大名」との力関係を決定的に示す出来事であり、日本史における大きな転換点となりました。
足利義昭はどんな人物だったのか
理想主義的な面
義昭は、将軍に就任してからも「室町幕府の権威を回復したい」という理想を強く抱いていました。自らがただの「名目だけの将軍」になることを嫌い、実際の権力を取り戻そうと努力しました。
朝廷や公家、寺社との関係を重視したのも、伝統的な権威を軸に政治を進めたいという姿勢の表れといえます。この点では、義昭は保守的でありながらも、理想に向かって突き進む性格であったと考えられます。
頑固で譲らない気質
義昭は信長に依存せざるを得ない立場にありながら、次第に自らの権限を強めようとしました。信長の主導権を受け入れず、独自に動こうとしたのは、彼の頑固な性格を物語っています。
信長との関係が悪化した後も、義昭は反信長勢力と結びつき、将軍としての意地を貫こうとしました。時代の流れを考えれば不利であっても、自分の立場を譲らなかったのです。
策士的な側面
義昭は戦国大名のように自ら兵を率いて戦うタイプではありませんでした。しかし、政治的な立場を利用して各地の大名を結びつけることには長けていました。
いわゆる「信長包囲網」を築こうとしたのも、義昭の策士的な性格を示しています。彼は将軍という肩書きを最大限に使い、敵対勢力をまとめようとしました。
感情的な一面
史料によれば、義昭はしばしば感情的に振る舞ったともいわれています。信長に対して強い不満を漏らしたり、計画が思い通りにいかないと怒りを露わにしたこともあったと伝わります。
このように冷静さを欠く面が、彼の政治的失敗を招いた一因とも考えられています。