日本の歴史には、英雄として称えられる人物と、裏切り者として批判される人物が存在します。
その中で特に評価が分かれるのが、室町幕府を開いた足利尊氏です。
鎌倉幕府に仕えながらそれを倒し、後醍醐天皇に協力したかと思えば、今度はその天皇を裏切って新たな権力を築き上げました。
その生涯は「裏切り」の連続といっても過言ではありません。
本記事では、足利尊氏の行動と性格に焦点をあて、なぜ彼が「やばい人物」と評されるのかを解説していきます。
足利尊氏とは何者か
鎌倉幕府に仕えた名門武士
足利尊氏は、源氏の名門である足利氏の出身です。足利氏は源頼朝の血を引く家柄であり、鎌倉幕府成立以来、武家社会で大きな存在感を持っていました。
そのため尊氏も幼い頃から幕府への忠誠を前提とした環境で育ち、将軍家を支える立場にありました。
やがて尊氏は武士としての才能を発揮し、戦場で活躍するようになります。特に武勇に優れていたことから、周囲からも信頼を集めました。
その一方で、内心では幕府の権力や政治に不満を抱えていたといわれています。
尊氏の人間的魅力と欠点
尊氏には多くの魅力がありました。まず、戦での勇敢さと統率力です。
彼が戦場に立てば、多くの武士たちが士気を高めて従いました。また、人柄が穏やかで寛大だとする記録も残っており、敵方の武将を許すこともありました。
しかしその一方で、欠点もはっきりしていました。特に指摘されるのは優柔不断さと野心の強さです。状況に応じて考えを変える柔軟さは、裏切りや寝返りという形で現れやすくなりました。
そのため、尊氏を評価する人々からは「現実的で柔軟な人物」と見られる一方、批判する人々からは「信義を守らない裏切り者」と呼ばれるようになったのです。
鎌倉幕府を裏切る
足利尊氏のやばい性格を表す代表的なエピソードといえば、鎌倉幕府を裏切り、天皇側についたことです。
後醍醐天皇の倒幕運動に参加
14世紀の初めごろ、鎌倉幕府は長年の支配の中で疲弊していました。御家人同士の対立や、土地の分配をめぐる不満が積み重なり、経済的にも政治的にも安定を失っていたのです。
そうした状況の中で、後醍醐天皇は「天皇自らが政治を行う」という理想を掲げ、幕府打倒を目指す倒幕運動を起こしました。
当初、足利尊氏は鎌倉幕府の忠実な家臣として仕えていました。ところが、尊氏は幕府の権威が弱まっていることを敏感に感じ取り、後醍醐天皇の勢力に加わる決断を下します。
この決断は、武士として幕府に仕える立場を捨てるという大きな裏切りでした。
尊氏はその軍事力を背景に、幕府方の軍と戦い、見事に勝利を収めていきました。最終的には鎌倉に攻め入り、源頼朝以来およそ150年続いた鎌倉幕府を自らの手で滅ぼすことになります。
歴史的に見れば、彼は倒幕の最大の功労者でしたが、同時に「幕府を裏切った男」として後世に名を残すことになったのです。
今度は天皇を裏切る
足利尊氏のやばいところは、仕えていた鎌倉幕府を裏切ったことだけではありません。今度は一緒に幕府を倒した後醍醐天皇まで裏切るのです。
建武の新政に幻滅
鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇は「建武の新政」と呼ばれる新しい政治を始めました。
これは、貴族中心の古い体制を復活させるもので、武士たちは冷遇されました。土地の分配も公平ではなく、倒幕に協力した武士たちの多くは恩賞に不満を持ちます。
尊氏もまた、その一人でした。自らの軍事力で幕府を滅ぼしたにもかかわらず、天皇からの扱いは期待したほどのものではなく、むしろ警戒される立場に置かれました。
尊氏の野心を恐れた天皇が、意図的に彼を遠ざけたともいわれています。次第に尊氏は後醍醐天皇への信頼を失い、反発心を強めていきました。
北朝を擁立し、新たな権力者へ
やがて尊氏は決定的な行動に出ます。後醍醐天皇を見限り、別の皇族を天皇として立ててしまったのです。それが北朝の光明天皇でした。
この瞬間、尊氏は「天皇に忠義を尽くした武士」から「天皇を裏切り、新たな天皇を担ぎ上げる権力者」へと立場を変えました。
その結果、日本は南朝の後醍醐天皇と北朝の光明天皇という二つの朝廷が並び立つ「南北朝時代」に突入します。
この混乱は約60年も続くことになり、尊氏の決断は日本史に大きな分裂を生み出しました。
しかし尊氏自身は、その中で最終的に室町幕府を開き、武家社会の新しい秩序を築くことに成功します。つまり、裏切りを重ねた結果、彼は新たな時代を切り開いたとも言えるのです。
尊氏のやばい性格
足利尊氏の人物像を語るとき、避けて通れないのが彼の「やばい」とも言える性格です。彼は戦場では勇敢で、味方から慕われるカリスマを持ちながらも、その決断は常に利己的で、裏切りの連続でした。
忠義を重んじる武士社会において、このような姿勢は強い批判を呼び起こしましたが、同時に彼を新時代の権力者に押し上げる原動力にもなったのです。
利己的な判断の連続
足利尊氏の生涯を振り返ると、行動の軸は「自分にとって有利かどうか」という一点に集約されます。
鎌倉幕府を裏切ったのも、後醍醐天皇を見限ったのも、最終的には自らの立場を守り、権力を確立するための判断でした。
彼のこうした姿勢は、敵や味方を一瞬で切り替える柔軟さにもつながります。昨日まで主君に忠誠を誓っていたかと思えば、翌日にはその主君を倒すために行動する。この徹底した現実主義は、当時の武士たちからすれば「信義を欠いた裏切り」と見られて当然でした。
しかし一方で、こうした利己的な判断を「柔軟な戦略」と捉えることもできます。時代の荒波の中で生き残るためには、状況に応じて考えを変え、最も有利な立場を選び取る必要がありました。
現代に置き換えれば、危機の中で方針を素早く切り替えられる経営者やリーダーに似た姿だと言えるでしょう。
英雄か裏切り者か
尊氏が評価されにくいのは、まさにこの二面性ゆえです。
室町幕府を開いた大功績によって「新時代を築いた英雄」とされる一方、忠義や信義を重んじない行動から「冷酷な裏切り者」として批判されてもきました。
その結果、尊氏の名は日本史の中で常に賛否両論にさらされてきました。彼の行動は新しい時代を切り開く力となったのは確かですが、その過程で南北朝の分裂を引き起こし、多くの混乱を生んだことも否定できません。
尊氏が「やばい」と評されることがあるのは、ただ裏切りを重ねたからではなく、状況に合わせて信義すらも切り捨てる冷徹さと、それでも人を惹きつける魅力を同時に持ち合わせていたからなのです。