室町時代は、将軍家と有力守護大名たちの複雑な権力関係によって揺れ動いた時代でした。その中で大きな衝撃を与えたのが、嘉吉の乱と呼ばれる事件です。
嘉吉元年(1441年)、室町幕府の六代将軍である足利義教が暗殺されるという前代未聞の出来事が起こりました。
この事件を主導したのが、播磨・備前・美作を支配していた守護大名、赤松満祐です。
赤松満祐とは
出自と赤松氏の地位
赤松満祐は播磨国(現在の兵庫県西部)を本拠とする赤松氏の一族に生まれました。
赤松氏は南北朝時代から活躍した武家で、足利尊氏が鎌倉幕府を倒し室町幕府を開いた際に大きな功績を挙げています。
その功により、播磨・備前・美作といった西国の要地を与えられ、室町幕府の中でも有力な守護大名として地位を固めていました。
しかし、室町幕府はしばしば将軍と守護大名との力関係が不安定であり、赤松氏も他の大名と同様に幕府との関係に苦心することになります。
室町幕府における赤松氏の役割
赤松氏は、西国において戦略的に重要な位置を占めていました。
播磨は瀬戸内海航路を押さえる要衝であり、経済的にも豊かでした。満祐はその地位を背景に勢力を広げつつ、幕府との関係を保ちながら権力を維持していました。
しかし、将軍足利義教が強権的な政治を進めるにつれて、赤松満祐の立場は次第に難しくなっていきます。
特に義教の専制政治が赤松氏の存立を脅かすこととなり、後に嘉吉の乱へとつながっていくのです。
足利義教と赤松満祐の関係
将軍義教の専制政治
六代将軍・足利義教は、強い権力をふるったことで知られる人物です。義教は僧侶として出家していた過去を持ちながらも、還俗して将軍となり、将軍権力の強化を徹底しました。
当時の室町幕府は守護大名が強大な力を持ち、しばしば将軍の権限を超えて行動することもありました。
そのため義教は、大名たちを抑え込み、幕府の威信を回復させようと考えたのです。義教は些細なことでも逆らう大名を厳しく処罰し、ときには粛清にまで及びました。
このような強権的な政治は、幕府の力を一時的に高める効果を持ちながらも、同時に大名たちの不満を大きくする結果となりました。赤松満祐もまた、その矛先の一人となっていきます。
満祐と幕府の対立の背景
赤松満祐は西国に広大な領地を持ち、幕府にとって重要な存在でした。
しかし義教にとっては、その力が脅威と映ったと考えられます。義教は赤松氏の領国に対して度々干渉を行い、満祐の立場を揺さぶりました。
満祐にとっては、幕府への忠誠を示しつつも一族の地位を守らねばならず、次第に不安を募らせていきます。
やがて、義教が満祐の討伐を計画しているとの噂が流れると、両者の関係は決定的に悪化していきました。この緊張が、やがて嘉吉の乱という大事件へとつながるのです。
嘉吉の乱の勃発
義教暗殺の経緯
嘉吉元年(1441年)6月、事件は突如として起こりました。
足利義教は播磨の赤松邸を訪れ、そこで饗応を受けていました。その場で赤松満祐は計画を実行し、義教を暗殺したのです。これが世にいう嘉吉の乱です。
将軍が家臣によって討たれるというのは前代未聞の出来事であり、この一撃によって幕府は大混乱に陥りました。
満祐にとっては、自らを守るための先手だったのかもしれませんが、その行為は幕府を根本から揺るがす大罪とされました。
赤松軍の行動と戦闘
義教を討った赤松満祐は、すぐに行動を起こし、播磨の居城を中心に守りを固めました。
また、一族や家臣を動員し、周辺の国々に働きかけて支持を得ようとしました。
しかし、幕府はただちに諸大名に命じて赤松討伐の軍を編成します。畠山氏や山名氏など有力守護が幕府側につき、赤松軍は圧倒的に不利な状況に追い込まれていきました。
嘉吉の乱の終結
赤松氏の居城・播磨城での籠城
幕府軍が赤松討伐に動き出すと、赤松満祐は播磨国の拠点である城に籠もり、徹底抗戦を試みました。
播磨は赤松氏の本拠地であり、地の利を活かした防衛が期待できましたが、幕府の動員した諸大名の兵力は膨大で、次第に孤立を深めていきます。
赤松氏の領内にはかつてから幕府の介入に不満を持つ者もいたため、一部は満祐に協力したものの、多くは幕府の威勢を恐れて従いませんでした。
その結果、赤松軍は数でも士気の面でも追い詰められていきました。
満祐の最期と一族の滅亡
嘉吉元年(1441年)8月、幕府軍が赤松氏の居城を包囲すると、満祐はもはや勝ち目がないと悟ります。彼は家臣や一族と共に自害し、ここに赤松満祐の生涯は幕を閉じました。
満祐の死によって赤松氏の勢力は一時的に壊滅し、播磨・備前・美作といった所領は没収され、幕府の管理下に置かれることとなります。赤松氏は一族ごと滅亡したかのように見えました。
嘉吉の乱の影響
室町幕府への衝撃
将軍が暗殺されるという出来事は、室町幕府にとって大きな打撃でした。足利義教の死によって幕府の威信は失墜し、義教が推し進めていた強権的な体制は大きく揺らぎます。
新たに将軍となった足利義勝はまだ幼く、幕政の主導権は有力守護大名たちが握ることになりました。
これにより、幕府の権力は再び守護大名に依存する形へと逆戻りしてしまいます。嘉吉の乱は、室町幕府が安定した中央集権を築けなかったことを象徴する事件といえるでしょう。
赤松氏の断絶とその後の再興の道
嘉吉の乱後、赤松氏は没落し、一時的に断絶したかに見えました。しかし、赤松一族の中には生き残りが存在し、後に再興の機会を得ることになります。
幕府の権力構造が再び流動的になる中で、赤松氏は細々と勢力を取り戻し、戦国時代に入る頃には一定の存在感を示すようになっていきます。
このように、嘉吉の乱は赤松氏の滅亡と再興の分岐点でもありました。
嘉吉の乱をめぐる周辺事情
嘉吉の乱は赤松満祐と将軍足利義教の対立から生じた事件でしたが、その余波は播磨や幕府だけにとどまりませんでした。当時の政治状況や社会情勢を見渡すと、いくつか興味深い点があります。
まず、この乱と同じ年には「嘉吉の徳政一揆」と呼ばれる出来事が起こっています。
これは、幕府が出した徳政令をきっかけに、借金の帳消しを求めた土民や都市住民が蜂起した事件です。将軍暗殺の混乱と重なり、社会全体が大きく不安定化していたことを物語っています。
また、満祐が義教を討った場面は「饗応の席」であり、武士社会における礼儀や信義を破った行為として強い衝撃を与えました。
武士の間では饗応や饗宴は信頼関係を示す重要な儀式であり、その場で主君に刃を向けるというのは、単なる反乱以上の「禁忌」を破る行為として記憶されました。
さらに、この事件の後に急速に勢力を伸ばしたのが山名氏でした。播磨をはじめとする旧赤松領を幕府から与えられたことで、山名氏は「六分の一殿」と呼ばれるほどの大勢力を築いていきます。
嘉吉の乱は赤松氏の没落と同時に、他の大名の台頭を促すきっかけとなったのです。
このように、嘉吉の乱を周辺から見渡すと、社会・文化・権力構造が複雑に絡み合った時代の象徴的な事件であったことがわかります。