本居宣長は何をした人→簡単にいうと『古事記』の研究をした国学者

本居宣長という名前を聞いたことはあっても、具体的に何をした人なのかを説明できる方は多くないかもしれません。

江戸時代に生きた本居宣長は、医師でありながら古典の研究に生涯を捧げ、日本文化の理解に大きな足跡を残しました。

『古事記伝』をはじめとする膨大な著作や、「もののあはれ」として知られる思想は、今日でも広く語り継がれています。

今回は、本居宣長がどのような人物であり、何を成し遂げたのかをわかりやすく紹介します。

本居宣長とは

生涯の概要

本居宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代中期に活躍した国学者であり、医師でもありました。

生まれは1716年、伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)で、商家に生まれました。幼いころから学問に親しみ、やがて京都に出て医術や漢学を学びます。

松坂に戻ってからは町医者として生計を立てつつ、夜を中心に古典の研究に没頭しました。生涯を通じて膨大な著作を残し、国学を大きく発展させた人物として知られています。

時代背景と宣長の立場

宣長が生きた18世紀の日本は、儒学が支配的な学問体系を築いていました。

しかし、宣長は日本固有の伝統や思想を再発見しようとする国学の立場から研究を進めます。中国由来の思想を中心とする儒学や仏教に対し、日本古来の神話や和歌の精神を尊重する学問を追究したのです。

そうした姿勢は、後世において「国学の四大人」の一人として高く評価されることにつながりました。

国学者としての業績

和歌研究と古典注釈

宣長は古典文学の注釈を精力的に行い、和歌に関する研究も進めました。

彼は和歌を単なる技巧や遊戯として捉えるのではなく、人の心を素直に表現する営みとして大切にしました。その成果は『源氏物語玉の小櫛』などに表れています。この著作では『源氏物語』の全体を詳細に注釈し、その文学的価値を改めて明らかにしました。

当時は物語文学を軽視する風潮もありましたが、宣長はその本質的な魅力を見抜き、日本文学史における評価を大きく変えました。

神道思想への貢献

もう一つの重要な業績は神道への理解を深めたことです。

宣長は、日本の神々や古来の信仰を学問的に整理し、体系的にとらえようとしました。彼は神道を日本人の心の根源と考え、神話や祭祀の意味を掘り下げています。

その姿勢は、後の国学者や思想家たちに大きな影響を与え、近世から近代にかけての神道理解にもつながっていきました。

『古事記』研究の意義

『古事記伝』成立の経緯

本居宣長の研究の中で最も大きな業績は、『古事記』の注釈書である『古事記伝』の完成です。

『古事記』は奈良時代に編纂された日本最古の歴史書で、神話や天皇の系譜を記していますが、長い年月の間にその内容を理解するのは難しくなっていました。

宣長は約35年という長い年月をかけて、この古典に注釈を加えました。結果として44巻に及ぶ大著が完成し、『古事記』を正しく読み解くための道を開いたのです。

注釈の方法と学問的特徴

宣長の注釈の大きな特徴は、徹底した文献学的な姿勢にあります。

文字や言葉の用法を一つひとつ確認し、古語や漢字の意味を細かく調べ上げました。そのため、『古事記伝』は単なる解説書ではなく、日本語や日本古代文化を理解するための学問的資料となりました。

当時の学問では、中国由来の文献解釈が一般的でしたが、宣長は日本語本来の意味を尊重し、その独自性を際立たせました。

日本古代思想理解への貢献

『古事記伝』は単に神話を整理したものではなく、日本人の心のあり方を探る試みでもありました。特に、日本の神々の姿を人間的にとらえ、素直な感情や自然な心の動きを重視しました。この視点は、のちに彼の代表的な思想である「もののあはれ」の理解にもつながっています。古代の人々の言葉や物語を通じて、日本人の精神の根を明らかにしようとしたのです。

学問方法と思想的特徴

「もののあはれ」の提唱

本居宣長の思想を語るうえで欠かせないのが「もののあはれ」という概念です。

これは、物事に触れて心が自然に動かされる感情を指しています。宣長は、人間が本来持つ感受性を尊重し、和歌や物語を通してその心の動きを表現することこそ文学の本質であると考えました。

この考え方は日本文学の理解を深める大きな鍵となり、後世に強い影響を与えました。

文献学的方法と徹底した実証性

宣長の学問の大きな特徴は、根拠を明確に示しながら考察を積み重ねる実証的な姿勢でした。

言葉の意味を調べる際には、複数の古典資料を比較し、曖昧な部分をできる限り解消しようと努めました。このような方法は、後の国文学や日本語学の研究の基盤ともなりました。

彼は感性を大事にしながらも、同時に冷静で緻密な分析を行っていたのです。

他の学問との対比(儒学・仏教との違い)

当時の学問の中心は儒学や仏教でしたが、宣長はそれらに対して距離を置きました。

儒学は道徳や秩序を重んじ、仏教は人間の欲望や苦しみを克服することを説きます。これに対して宣長は、人間の感情を否定するのではなく、ありのままに受け入れることを重視しました。

この違いが彼の学問の独自性を際立たせ、日本固有の思想を強調する姿勢につながったのです。

交流と影響

師弟関係と門人たち

本居宣長は医業のかたわら学問を続けていたため、多くの弟子たちが松坂の彼の家を訪れて教えを受けました。その中には、後に国学を発展させていく重要な人物も含まれていました。

弟子たちは宣長の注釈方法や思想を受け継ぎ、それぞれの地域で学問を広めていきました。宣長は師としても厚い信頼を集めており、学問の精神を継承する大きな役割を果たしました。

同時代の知識人との関わり

宣長は同時代の学者とも交流を持ち、学問上の議論を交わしていました。

特に、同じ国学者である賀茂真淵とは深いつながりがありました。真淵の指導を受けたことが、宣長が本格的に国学に取り組む契機となったのです。

二人の関わりは、日本古典研究の新たな方向性を築き、国学を大きく発展させる基盤となりました。

後世の国学・思想への影響

宣長の学問は、後世の国学者や思想家に大きな影響を与えました。

特に、幕末から明治にかけて日本人の国民意識が高まる時代において、宣長の思想は日本固有の伝統を再評価する動きに結びつきました。

彼の「古事記研究」や「もののあはれ」の思想は、文学だけでなく歴史学や宗教観の分野にも深い影響を残しています。

本居宣長の著作と代表的な作品

『源氏物語玉の小櫛』

宣長は『源氏物語』の注釈に力を注ぎ、その成果として『源氏物語玉の小櫛』を著しました。この書物は物語の詳細な注解だけでなく、文学としての魅力を論じたものでもあります。

宣長は源氏物語を単なる虚構の物語としてではなく、人の感情の深さを描いた文学作品として高く評価しました。その姿勢は後世の文学研究の基礎となりました。

『うひ山ぶみ』などの入門的著作

宣長は初心者のために学問への導きとなる著作も書いています。その代表が『うひ山ぶみ』です。この書物では、古典の学び方や心構えをわかりやすく示し、多くの人々に古典研究の大切さを伝えました。

専門的な研究だけでなく、学問を広めるための工夫を怠らなかったことも、宣長の特徴といえます。

宣長の遺した学びの場(鈴屋)

宣長はその学問において、書物を読むだけでなく、実際に自らの蔵書を増やし、各地の古典を取り寄せる努力を惜しみませんでした。

蔵書の中には自筆の書き込みが数多く残されており、彼の研究の過程を今に伝えています。また、松坂の自宅は「鈴屋(すずのや)」と呼ばれ、学問の拠点として弟子や訪問者が集う場となりました。

生涯をかけて築き上げられたこの学問の空間は、やがて記念館として保存され、後世にその精神を伝えています。

学者としての成果だけでなく、学びの場そのものを築き上げた点においても、本居宣長の功績は大きなものといえます。