征韓論をわかりやすく解説!賛成した人と反対した人の理由も

征韓論とは、明治初期の日本で起こった「朝鮮に対して武力を用いてでも開国を迫るべきだ」という主張を指します。

明治維新によって新しい政府が誕生した日本は、国内の改革を急ぎつつも、外交の在り方をどうするかで悩んでいました。

その中で、朝鮮との関係をどうするかが大きな問題となり、国内で激しい議論が交わされることになったのです。

この記事では、なぜ征韓論が出てきたのか、どのような人々がどのような主張をしたのか、そして最終的にどのような結末を迎えたのかを順を追って解説していきます。

明治初期の日本と朝鮮の関係

幕末から明治初期の国際情勢

19世紀後半の東アジアは、欧米列強の進出によって大きく揺れ動いていました。

清国(中国)はアヘン戦争に敗れて不平等条約を結ばされ、アジア諸国は次々と列強の圧力を受けていました。

日本もまた、幕末にペリー来航をきっかけに開国を迫られ、不平等条約を結ばざるを得ませんでした。

こうした状況の中で、日本は自らも近代国家として生まれ変わり、欧米列強に対抗できる国力を築く必要に迫られていました。

つまり国内の改革と同時に、周辺諸国との関係を見直すことが急務となっていたのです。

日本と朝鮮の外交関係の停滞

当時の朝鮮(李氏朝鮮)は、中国(清)との関係を重視し、鎖国に近い外交方針をとっていました。日本から国交回復の打診があっても、朝鮮はなかなか応じようとしませんでした。

その背景には、日本が天皇中心の国家に変わったことに対する朝鮮側の警戒心や、国際秩序を守るために新しい外交関係を結ぶことへの消極姿勢がありました。

このような状況に、日本国内では「いつまでも関係を改善できないのは問題だ」という声が強まっていきました。

特に一部の政治家や武士出身の人々は、朝鮮に対して積極的に行動を起こすべきだと考えるようになったのです。これが後に征韓論として表面化していきました。

征韓論の提唱とその主張

主導した人物

征韓論を強く主張したのは、西郷隆盛や板垣退助といった明治政府の中心人物たちでした。

西郷隆盛は薩摩藩出身の軍事指導者で、維新後も政府の要職を担っていました。彼は、武士の不満を和らげるためにも、外交問題に積極的に取り組む必要があると考えていました。

また、土佐出身の板垣退助も、朝鮮に対する積極外交を支持していました。彼らに共通するのは、朝鮮との関係を放置することが日本にとって不利益になるという危機感でした。

主張の内容

征韓論の基本的な主張は「朝鮮が日本を軽視し、国交を拒む以上、武力を用いてでも開国させるべきだ」というものでした。

特に西郷隆盛は、自らが朝鮮に赴いて交渉役を務め、もし相手が不誠実な態度を取れば、自分の命を犠牲にしてでも開戦の口実をつくるつもりだと語ったといわれています。

彼らは、外交上の問題解決だけでなく、国内的な要因も重視していました。武士の特権を失い、生活に困窮する士族が増えていたため、外征を行えば彼らの不満を解消し、社会の安定につながると考えられていたのです。

征韓論をめぐる対立

征韓論をめぐって政府内は大きく割れました。

西郷隆盛や板垣退助らの賛成派と、大久保利通や岩倉具視らの反対派が対立し、最終的に政府の方針を決める会議は激しい議論の場となりました。

この争いは「明治六年政変」と呼ばれ、日本の政治史に大きな影響を与えることになりました。それぞれの主張を見てみましょう。

賛成した人々とその主張

征韓論を推し進めようとした人々は、明治維新を成し遂げた功労者たちでもありました。彼らは朝鮮との関係悪化を放置すれば日本の国益を損なうと考え、積極的な行動を求めていました。

西郷隆盛

西郷隆盛は、征韓論の中心人物とされています。彼は朝鮮が日本を無視し続けることを問題視し、自らが使節となって朝鮮に赴くべきだと考えました。もし交渉の場で朝鮮が日本を侮辱すれば、自分が犠牲となることで開戦の口実を作れるとまで語ったと伝えられています。

西郷の考えには、士族の不満を解消する狙いもありました。廃藩置県や秩禄処分によって武士たちは職を失い、不安定な生活を送っていました。その不満を外征によって吸収しようとしたのです。

板垣退助

板垣退助もまた、征韓論を強く支持しました。彼は自由主義的な思想を持ちながらも、当時の日本が国際的に孤立する危険を防ぐには、朝鮮との関係を積極的に動かす必要があると考えました。

武力を背景にしてでも国交を開かせ、日本の存在を周辺諸国に示すことが不可欠だと判断したのです。

江藤新平など他の賛成派

肥前出身の江藤新平など、他の政府要人も賛成派に加わっていました。彼らは朝鮮を開国させることが、日本の安全保障にとっても有利に働くと信じていました。

また、当時の日本はまだ列強と不平等条約を結ばされていたため、近隣の国々に影響力を及ぼすことが、国際社会での立場を強めることにつながると考えていました。

反対した人々とその主張

征韓論は明治初期の日本政治を大きく揺さぶりましたが、政府内にはそれに強く異議を唱える人々がいました。彼らは、戦争によって得られる利益よりも、失うものの方が大きいと冷静に見抜いていました。

大久保利通

大久保利通は、薩摩出身で明治政府の中枢を担った政治家です。彼は内政重視の姿勢を鮮明に打ち出し、特に殖産興業や財政基盤の確立を最重要課題と考えていました。

日本はまだ鉄道や工業化の初期段階にあり、戦争に必要な兵器や資金を十分に備えていませんでした。もしこの段階で戦争に突入すれば、近代化の努力が頓挫しかねないと懸念したのです。

さらに、大久保は国際関係の現実も直視していました。当時の日本が朝鮮に武力行使をすれば、清国や欧米列強の介入を招き、国際的に孤立する危険がありました。そのため、彼は戦争を「時期尚早」と断じ、反対に回ったのです。

岩倉具視

岩倉具視は、公家出身で明治維新を推進した中心人物のひとりです。彼が特に重視していたのは、西洋諸国との外交関係でした。

岩倉は1871年からの岩倉使節団を率い、アメリカやヨーロッパを巡って不平等条約の改正交渉を試みました。その経験から、日本が列強と肩を並べるためには軍事力よりも制度・文化・経済の整備が欠かせないと確信していました。

もし日本が朝鮮に戦争を仕掛ければ、西洋諸国から「日本もまた野蛮な侵略国家だ」とみなされ、条約改正の道は遠のいてしまいます。そのため岩倉は、征韓論に真っ向から反対し、むしろ国際社会での信頼を得ることを優先すべきだと主張しました。

木戸孝允

長州出身の木戸孝允も、征韓論反対の立場を取りました。彼は明治維新を支えた知識人であり、西洋の制度や思想を積極的に取り入れた人物でした。木戸は、日本の教育制度や行政組織を整備することこそが国家を強くすると考えていました。

彼にとって、武力による朝鮮開国は一時的な成果に過ぎず、国力そのものを高めることにはつながらないものでした。むしろ、戦争によって財政を圧迫すれば、国民生活や改革が停滞してしまうと危惧したのです。

木戸は征韓論を「短期的な解決策にとどまり、長期的に見れば害が大きい」と判断し、冷静に反対の姿勢を貫きました。

征韓論の結末と影響

明治六年政変の結果

政府内での激論の末、最終的に採用されたのは反対派の意見でした。

大久保利通や岩倉具視は「日本はまだ戦争を行う段階にない」と判断し、まずは国内改革を優先する方針を決定しました。これによって、征韓論は退けられることになったのです。

この決定に強く反発した西郷隆盛や板垣退助らは、政府の要職を辞して下野しました。特に西郷隆盛の退場は政府にとって大きな痛手であり、その後の日本政治に長く影を落としました。この出来事が「明治六年政変」と呼ばれるものです。

その後の日本の朝鮮政策

征韓論そのものは否定されたものの、日本と朝鮮の関係は依然として緊張状態にありました。

その後、日本は朝鮮に圧力をかけ続け、最終的には1876年の日朝修好条規によって朝鮮を開国させることに成功します。この条約は不平等条約であり、日本が朝鮮に大きな影響力を持つきっかけとなりました。

一方で、明治六年政変によって政府を去った板垣退助らは、やがて自由民権運動を起こすことになります。

つまり、征韓論をめぐる対立は外交問題にとどまらず、日本の国内政治の方向性にも大きく関わっていったのです。

征韓論が残した新たな時代の分岐点

征韓論をめぐる議論は、外交政策の選択肢を超えて、明治新政府のあり方を映し出す鏡のような出来事でした。

賛成派と反対派の対立は、外征か内政かという政策判断だけでなく、国家の方向性や近代化のスピード、さらには維新を支えた人々の人間関係にまで深く影響を及ぼしました。

明治六年政変を経て、多くの有力者が政府を去り、その後の政治勢力図が大きく塗り替えられました。

西郷隆盛は薩摩に戻り、後の西南戦争へとつながる道を歩むことになります。板垣退助は自由民権運動の先頭に立ち、江藤新平もまた士族反乱に関わっていきました。

征韓論は退けられたものの、その決定が各人物の運命を大きく分け、日本の政治史に長期的な影響を残したのです。

このように征韓論は、外交政策の是非をめぐる議論であると同時に、近代国家として歩み始めた日本が、どのように権力を運営し、誰がその舵取りを担うのかを決定づける試練でもありました。

議論そのものの成否よりも、そこで生じた人の動きと政治の再編こそが、日本の歴史を次の段階へと押し進める力になったといえるでしょう。