幕末という時代は、多くの志士や武士がそれぞれの信念を胸に戦い、命を散らした時代でした。
その中でも、新選組局長として名を馳せた近藤勇は、忠義を重んじ、最後まで幕府に仕えた人物として知られています。
人斬り集団の領袖として恐れられた彼が、どのようにして敗北を重ね、やがて捕らえられ、処刑へと至ったのか。その過程には、時代のうねりに翻弄されながらも武士としての誇りを貫いた姿が浮かび上がります。
今回はそんな近藤勇の「最後」に焦点を当て、その歩みを追っていきます。
幕末の動乱と近藤勇の立場
新選組局長としての歩み
近藤勇は、幕末の動乱期に京都を中心に活動した新選組の局長として知られています。
彼は武蔵国多摩の出身で、剣術道場「試衛館」の仲間たちとともに上洛し、やがて新選組の中核を担うようになりました。
当時の京都は尊王攘夷派と佐幕派が激しく対立し、治安も乱れていました。その中で新選組は京都守護職・会津藩の支配下に置かれ、市中警備や不逞浪士の取締りに従事しました。
池田屋事件などで名を馳せた新選組は、幕府側の治安維持部隊として大きな役割を果たしました。近藤勇は局長として組織をまとめあげ、強い統率力を発揮した人物でした。
戊辰戦争の勃発と立場の変化
しかし、時代の流れは新選組や幕府にとって厳しいものでした。
1867年の大政奉還を経て、旧幕府と新政府軍との間で戊辰戦争が勃発します。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたことを契機に、形勢は一気に新政府軍優位となりました。
この戦いの敗北によって、京都から撤退した新選組もその存在意義を大きく失うことになります。
幕府の権威が急速に失墜する中で、近藤勇はなおも幕府への忠義を貫き、抵抗を続けようとしました。しかし、その行動は次第に追い詰められていくこととなりました。
江戸から甲府・板橋へ
甲陽鎮撫隊の結成と敗走
鳥羽・伏見の戦いに敗れた後、近藤勇は江戸へ戻り、1868年3月、「甲陽鎮撫隊」という新たな部隊を結成しました。
これは、旧幕府の威信を保ちつつ、甲府城を拠点に勢力を立て直すことを目的としたものでした。
甲陽鎮撫隊には新選組の残党や志を同じくする者が加わりましたが、人数は数百人にとどまり、しかも武器や兵糧の面で新政府軍に比べると大きく劣っていました。
それでも近藤勇は決起し、甲府へと進軍します。しかし、甲府城を目前にした段階で新政府軍の大部隊と衝突し、わずか一戦で壊滅的な敗北を喫しました。
甲陽鎮撫隊は散り散りになり、近藤自身も退却を余儀なくされました。
潰走の果てに捕縛されるまでの経緯
甲府での敗戦の後、近藤勇は幕府軍の再起を信じつつも、もはや戦況を覆す力を持つことはできませんでした。
新選組の仲間たちと合流を試みつつ、江戸近郊に身を潜めていましたが、敗軍の将としての立場はきわめて危ういものでした。
やがて近藤は下総流山(現在の千葉県流山市)に拠点を移しました。ここで再び挙兵の機会をうかがっていましたが、新政府軍に包囲され、逃れることができなくなります。
最終的に近藤は投降し、捕らえられてしまいました。かつて京都の治安を支配した新選組局長が、敗軍の武士として敵の手に落ちた瞬間でした。
板橋での裁きと処刑
板橋での取り調べと罪状
流山で捕らえられた近藤勇は、新政府軍によって江戸へ送られることとなりました。その後、板橋の刑場付近に設けられた陣屋で取り調べを受けます。
ここで問われたのは、単なる一武士としての罪ではなく、幕府のために戦った象徴的存在としての責任でした。
新選組は京都で尊王攘夷派の志士たちを数多く取り締まり、池田屋事件をはじめとして討幕派にとって大きな障害となっていました。
新政府軍にとって近藤勇は、倒すべき旧体制の象徴であり、その存在を許しておくことはできなかったのです。
取り調べの過程では、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府側が、近藤の戦歴や行動を「朝敵」として裁く方向に傾いていきました。
慶応四年の斬首刑
慶応四年(1868年)4月25日、近藤勇は板橋において斬首刑に処されました。享年34歳でした。斬首の際、近藤は静かにその運命を受け入れたと伝えられています。
武士の作法を守り、最後まで動揺を見せなかった姿は、彼の誇りと覚悟を示しているといわれています。
この刑は公開処刑ではなく、限られた場で行われましたが、その知らせはすぐに広がりました。
かつて京都で名を轟かせた新選組の局長がついに処刑されたという事実は、旧幕府勢力に大きな衝撃を与えることとなりました。
新選組という組織の象徴であった近藤の死は、幕末という時代の転換点を象徴する出来事でもあったのです。
最後の姿とその後の影響
近藤勇の辞世
近藤勇は、処刑を前に辞世の句を残したと伝えられています。
それが「快く受けん電光三尺の剣、只まさに一死をもって君恩に報いん」というものです。
意味は「稲光りする三尺の剣で快くきられようではないか、死をもって主君に報いよう」となります。
これらは、剣と忠義に生きた武士としての誇りを示しているとも解釈されます。いずれにせよ、最後の瞬間まで近藤勇は幕府に尽くした一人の武士としての姿勢を崩さなかったと伝わっています。
もっとも、正確な出典については諸説あり、確実に彼の作と断定できるものは少ないともいわれます。
首級の行方と新選組への余波
近藤勇の首級は、処刑後に京都へ送られ、市中に晒されたといわれます。
これは、新政府軍が「旧幕府の象徴を討った」という事実を広く示すためでした。
その後の行方については、埋葬された場所が複数伝承として残っており、今日でも各地に「近藤勇の墓」とされる場所が存在しています。
近藤の死は新選組に大きな打撃を与えました。副長の土方歳三らが奮戦を続けたものの、組織としての結束は崩れていきました。
彼らは最終的に函館戦争にまで戦いを続けますが、もはや往年の勢いを取り戻すことはできませんでした。
勇名の余響
近藤勇の最期は、幕末の動乱を象徴する出来事のひとつとして、今も多くの人々に語り継がれています。彼が処刑された板橋付近には、後に有志の手で墓が築かれました。
その墓碑には「新選組局長近藤勇之墓」と刻まれ、長い時を経てなお訪れる人が絶えません。また、近藤を慕った者たちが各地に慰霊碑を建立し、それぞれが彼の魂を弔おうとしました。
このように、一人の武士としての生きざまが、処刑後も人々の記憶に強く刻まれたことは特筆すべき点です。
近藤勇は敗者として命を落としましたが、その忠義や統率力は、墓碑や伝承を通して後世に残り続けています。時代が移ろっても、彼の存在は幕末史を語る上で欠かすことのできないものといえるでしょう。