芹沢鴨はなぜ殺されたのか?誰に殺されたのか?

幕末の京都で治安維持のために活躍した新選組は、今でも多くの人々を惹きつける存在です。

その始まりを語るとき、必ず登場するのが芹沢鴨(せりざわ かも)という人物です。

新選組の前身である「壬生浪士組」が結成されたのは、1863年(文久3年)のことでした。京の治安を守るため、将軍警護や尊王攘夷派の取り締まりを担う集団として、江戸や各地の浪士が集められました。

その中で中心的な立場に立ったのが、天然理心流の近藤勇と、そして水戸藩浪士出身の芹沢鴨でした。

この時点では、新選組はまだ安定した組織ではなく、複数のリーダーが存在する寄り合い所帯でした。その中で豪胆さと強烈な個性を放った芹沢は、短期間で強い影響力を持つようになりました。

しかし、その芹沢は仲間の手によって暗殺され、命を落とすことになります。

なぜ彼は殺されなければならなかったのか。そして、誰がその刃を振るったのか。

この記事では、芹沢鴨の人物像や当時の政治背景を整理しながら、その暗殺の真相に迫っていきます。

芹沢鴨の人物像と行動

豪胆さと武勇の評価

芹沢鴨は、武勇に優れた人物として知られています。水戸藩出身というバックグラウンドもあり、攘夷運動への熱意を持ちながら、剣客としても相当な腕を振るったと伝えられています。

そのため、壬生浪士組の中では「恐れられる存在」となり、時に威圧感をもって仲間たちを従わせていました。

また、剛直な性格で、ためらわず行動に移す点も評価されていました。幕末の動乱期において、こうした気質は一定の指導力となり、組織の立ち上げには役立った部分もありました。

粗暴な振る舞いと問題行動

しかし、芹沢には大きな欠点もありました。とりわけ有名なのが「酒乱」です。酒を飲むと手がつけられないほど荒れ、乱暴を働いたという逸話が数多く残っています。

京都の町人に対する横暴、女性への乱行、さらには火を放つといった事件も伝えられており、組織の評判を著しく傷つけることになりました。治安を守るはずの壬生浪士組が、逆に市中の不安をかき立ててしまうような状態だったのです。

この粗暴な振る舞いは、仲間からの信頼を損ねるだけでなく、支援していた会津藩や幕府にとっても頭痛の種となりました。

芹沢鴨を取り巻く政治的背景

会津藩との関係

新選組の前身である壬生浪士組は、京都守護職である会津藩の庇護を受けて活動していました。会津藩にとって彼らは「京都の治安を守る武装集団」として期待されていた存在です。

ところが、芹沢の酒乱や乱暴な行動は、市民に迷惑をかけるだけでなく、会津藩の顔に泥を塗ることになりました。

もし「壬生浪士組=ならず者集団」という評判が広まれば、会津藩自体の威信も失墜しかねません。そこで、芹沢の存在は「治安維持の障害」と見なされるようになっていったのです。

朝廷・幕府との緊張

さらに当時の京都は、尊王攘夷運動が盛り上がり、討幕派や過激派が暗躍していました。幕府側としては、壬生浪士組を「秩序を守る戦力」として利用する意図がありました。

しかし、芹沢の行動は時に過激な尊王攘夷派と衝突し、時に無関係な市民に被害を及ぼしました。これは幕府や会津藩の意向とは相反するもので、組織全体の存続を危うくする火種となりました。

つまり、芹沢個人の振る舞いは、単なる「内部の問題」ではなく、新選組の政治的立場を危うくする要因へと拡大していったのです。

芹沢鴨暗殺の決定要因

内部対立の激化

壬生浪士組の中では、芹沢鴨を支持する派閥と、近藤勇や土方歳三らが率いる派閥との対立が次第に強まりました。

芹沢は強烈な個性を持つため、彼の下に集まる者もいましたが、粗暴な行動に反感を抱く者は少なくありませんでした。

とりわけ土方歳三は、組織の規律を何より重んじる人物でした。そのため「隊の名を汚す存在は排除すべき」という意識を強く持ち、近藤とともに粛清の方向へ動いていきます。

外部からの圧力

さらに、会津藩が芹沢の行動を問題視していたことも暗殺決行の追い風となりました。史料によっては「会津藩が処分を指示した」という説や、「隊内で自発的に処断した」という説があります。

いずれにせよ、芹沢を排除することは新選組が組織として生き残るための不可欠な選択と受け止められていました。

つまり、芹沢鴨の暗殺は、内部の対立と外部からの圧力が重なった結果、避けられないものになったのです。

芹沢鴨暗殺の経緯

計画から実行まで

1863年9月18日(文久3年8月18日とも伝わる)、芹沢鴨の暗殺は実行に移されました。中心となったのは、土方歳三をはじめとする近藤勇派の隊士たちでした。

その夜、芹沢は親しい仲間とともに京都・壬生の八木邸で酒宴を開いていました。深酒をした芹沢は、やがて寝入ってしまいます。その隙を狙い、襲撃隊が踏み込みました。布団に横たわる芹沢は、抵抗する間もなく斬り伏せられたと伝わります。

また、芹沢と行動を共にしていた新見錦や平山五郎といった同志も次々に粛清され、芹沢派は壊滅状態に追い込まれました。これにより、組織の実権は完全に近藤・土方の手に移ることになります。

その後の影響

芹沢の死によって、壬生浪士組は大きく変わりました。豪放で粗暴な芹沢に代わり、規律を重んじる近藤勇と土方歳三のカラーが強まっていきます。

以降、隊は「新選組」として名を改め、厳格な法度を敷くことで組織力を高めていきました。いわゆる「局中法度」に代表される厳しい規律は、この粛清の経験から生まれたとも言えるでしょう。

芹沢鴨の存在は短期間で終わりましたが、その排除によって新選組が本格的に歩み出したのです。

芹沢鴨は誰に殺されたのか

近藤勇派によって暗殺されたことは分かっていますが、具体的に手を下したのは誰なのでしょうか?

史料によって細部は異なるものの、多くの研究や伝承は、ある特定の人物とその仲間たちが暗殺の実行者であったことを指し示しています。

ここでは、その「誰が殺したのか」という点に焦点を当てて整理していきます。

芹沢鴨を切ったのは誰か?

暗殺実行者とされる隊士たち

芹沢鴨が襲撃された夜、実際に刀を振るったのは土方歳三の信頼する若手隊士たちだったと考えられています。

名前が挙がるのは、槍の名手として知られる原田左之助、病弱ながら剣術の腕は抜群と評判の沖田総司、そして聡明で柔和な人柄ながらも実戦では勇敢な藤堂平助です。

これらの人物が芹沢暗殺に関わったという説は複数残されています。しかし、残念ながら史料は断片的で、確定的に「この人が斬った」と特定することはできません。

ただ、芹沢の寝所に直接踏み込んで命を奪ったのは、こうした土方派の精鋭隊士だった可能性が高いと考えられています。

土方歳三の主導説

暗殺計画そのものを取りまとめたのは、ほぼ間違いなく土方歳三だとされています。

土方は「鬼の副長」と呼ばれるほど厳格に規律を重んじる人物で、隊の名を汚す存在を放置することを許さない性格でした。

会津藩や京都の市民からの信頼を維持するためにも、組織内の乱暴者を見過ごすことはできませんでした。

そこで、芹沢派の粛清を自ら主導し、最も信頼できる部下たちに実行を任せたと考えられています。

近藤勇の立場

一方で、組織の頂点に立つ近藤勇はどう関わっていたのでしょうか。近藤は表向き温厚で義理堅い人物として知られ、強引な手段を好むタイプではありませんでした。

しかし、隊の長として芹沢の問題行動を把握していないはずはなく、処断の必要性を認識していたと考えられます。

そのため近藤は、暗殺の実行を土方に任せつつ、自らは黙認する立場を取ったとされています。

つまり、直接刀を振るったのは土方派の隊士たちであり、近藤は最終的に結果を受け入れる「最高責任者」としての役割を担ったのです。

芹沢鴨の死がもたらしたもの

芹沢鴨の暗殺直後、壬生浪士組は「新選組」と改称され、幕府から正式な治安組織として認められる道が開かれます。

もし芹沢が存命であったなら、酒乱や粗暴な行動が続き、組織が瓦解していた可能性もありました。つまり、芹沢の死は新選組が表舞台へ進出するための通過儀礼でもあったのです。

また、芹沢の存在そのものは「豪放磊落な幕末浪士」の典型として、後世に強い印象を残しました。

近藤・土方の体制下では秩序と規律が徹底されましたが、芹沢のような突出した個性が最初期にいたことは、新選組の多面性を際立たせています。

彼が短期間で去ったからこそ、後に「武士道の体現者」とも「人斬り集団」とも語られる新選組の姿が形づくられたと見ることもできるでしょう。

こうして芹沢鴨の最期は、組織の存続と変革を分かつ一線となり、その影響は新選組の全歴史に深く刻まれることになりました。