油小路事件とは?伊東甲子太郎なぜ殺されたのか?

幕末の京都では、倒幕派と幕府側の勢力が激しく対立し、町の至るところで暗殺や衝突が相次いでいました。

その中でも特に有名なのが「油小路事件(あぶらのこうじじけん)」です。

この事件は、新選組から分裂してできた御陵衛士(ごりょうえじ)の指導者・伊東甲子太郎が、新選組によって暗殺された出来事を指します。

なぜ同じ志を持っていたはずの仲間が、血で血を洗う抗争に発展してしまったのでしょうか?

そこには、時代のうねりの中で避けられなかった思想対立や、組織を守るための非情な決断がありました。

油小路事件とは

事件の概要

油小路事件とは、慶応3年(1867年)11月18日、京都の油小路で起こった暗殺事件です。被害者となったのは、御陵衛士の盟主であった伊東甲子太郎でした。

御陵衛士は、新選組から離脱した伊東甲子太郎や藤堂平助らが結成した組織です。彼らは表向きは尊王攘夷を掲げ、倒幕派と連携を模索していました。

一方で、新選組は幕府に忠誠を誓う武装集団でした。両者の対立は次第に深まり、ついに伊東が新選組によって暗殺されるに至ったのです。

この事件は、新選組史のなかでも特に血なまぐさい出来事として知られています。

主な登場人物

  • 伊東甲子太郎:儒学者出身で、新選組に加入後は参謀的な役割を果たしました。のちに思想的な対立から御陵衛士を結成。
  • 近藤勇:新選組局長。幕府への忠誠を貫き、反対勢力を容赦なく排除。
  • 土方歳三:新選組副長。冷徹な判断力と組織防衛の意識から、伊東暗殺に深く関わったとされる。
  • 藤堂平助:御陵衛士のメンバーであり、伊東とともに新選組を離脱。

油小路事件に至る背景

新選組内の亀裂

伊東甲子太郎はもともと優れた学識を持ち、文武両道の人物として新選組に迎え入れられました。当初は参謀的な役割を担い、組織の頭脳として期待されていました。

しかし、時代の流れとともに「幕府に従うべきか」「尊王攘夷を推し進めるべきか」という点で路線の違いが表面化します。

伊東は尊王攘夷思想を強く持ち、朝廷を重んじる立場をとりました。これに対して新選組の近藤勇や土方歳三は、あくまで幕府の命令を最優先する姿勢を崩しませんでした。

やがて伊東は志を同じくする隊士を集め、新選組から分裂して「御陵衛士」を結成するのです。

政治情勢の変化

さらに当時の政治状況も、この事件の大きな背景となっていました。大政奉還によって幕府の政権は朝廷に返上され、国内は倒幕派と佐幕派の駆け引きが激化していました。

薩摩藩・長州藩といった勢力は倒幕を推進し、新選組のような幕府方の組織は次第に孤立していきます。

伊東と御陵衛士は、こうした流れのなかで倒幕派との接近を図り、新選組にとっては「裏切り者」にも等しい存在となっていきました。

この緊張関係こそが、油小路事件の直接的な引き金になったのです。

伊東甲子太郎暗殺の経緯

新選組による謀略

近藤勇と土方歳三は、伊東甲子太郎を排除するために計画を立てました。

彼らは表向きには友好を装い、伊東を油小路近くの料理屋へ誘い出します。宴席で歓談したあと、「帰り道を案内する」と言って伊東を油小路へと導いたのです。

これは新選組による典型的な謀略であり、相手の警戒心を和らげてから一気に行動に移すやり方でした。

伊東も警戒していなかったわけではありませんが、「さすがにこの場では命を狙われまい」と油断したことが悲劇につながりました。

事件当日の流れ

伊東甲子太郎は、帰途の途中で新選組の隊士たちに襲われます。油小路に差しかかった瞬間、待ち伏せていた隊士が一斉に斬りかかったのです。

伊東は剣術にも優れていたものの、多勢に無勢で応戦はかないませんでした。最終的に深手を負い、その場でとどめを刺されて命を落としました。

事件後、伊東の遺体はそのまま路上に放置されました。これによって御陵衛士の仲間たちに「新選組の仕業」であることが明確に示されたのです。

なぜ伊東甲子太郎は殺されたのか

路線対立

最大の理由は、思想と路線の違いでした。伊東は尊王攘夷を掲げ、倒幕派との接近を進めようとしていました。

これは幕府の権力を守ろうとする新選組にとって、正面からの裏切りにほかなりませんでした。

脅威の存在

伊東の存在は、新選組の内部を揺るがす危険を孕んでいました。もし伊東や御陵衛士が情報を倒幕派に流せば、幕府側の作戦は丸裸にされかねません。

また、伊東に同調する隊士が増えれば、新選組の組織そのものが瓦解する恐れもありました。

組織防衛の論理

近藤勇や土方歳三にとって、伊東の暗殺は「組織を守るためのやむを得ない決断」でした。容赦のない行動は残酷に映りますが、当時の彼らにとっては生き残りを賭けた選択だったのです。

暗殺は単なる復讐や私怨ではなく、他の御陵衛士への威嚇や見せしめの意味も強かったと考えられます。

油小路事件の結果と影響

直後の影響

伊東の死によって御陵衛士は大きな打撃を受けました。しかし、仲間たちが何もせずに終わることはありませんでした。

事件直後、四条河原で御陵衛士の残党が新選組を襲撃し、藤堂平助などが命を落とします。これは「御陵衛士の報復戦」として知られています。

長期的な影響

油小路事件を経て、新選組は「反対者は徹底的に粛清する組織」としての姿を強く印象づけました。

しかしその一方で、新選組はますます孤立を深め、倒幕派からは「幕府の犬」として憎悪の対象となっていきます。

結果的に、この事件は新選組の組織維持にはつながったものの、時代の大きな流れを変えることはできませんでした。

幕末の空気を映す事件の意味

油小路事件は、単なる個人間の確執ではなく、幕末という時代そのものを映し出す象徴的な出来事でした。

武士としての忠義、組織の存続を優先する冷徹な判断、そして尊王攘夷という理想をめぐる葛藤が、一夜の惨劇に凝縮されています。

また、事件の舞台となった油小路は、京都の繁華な町筋のひとつであり、多くの市民が暮らす場でもありました。

つまり、この暗殺劇は人々の生活のすぐそばで繰り広げられ、幕末の緊張と不安を市井の人々にまざまざと印象づけたといえるでしょう。

血に彩られたこの事件は、新選組の歴史のなかで強烈な記憶として残り続け、同時に、倒幕の嵐が迫る時代のただ中で武士たちがいかに揺れ動いていたかを伝える重要な史実でもあります。