1863年、鹿児島湾で日本とイギリスが激突した「薩英戦争」。
その中心にいた薩摩藩の行動は、後世に「頭がおかしい」と評されるほど無謀なものでした。
なぜ薩摩藩は、当時世界最強ともいえる大英帝国に真正面から挑んだのでしょうか。
薩英戦争の背景から薩摩藩の決断、戦闘の実態、そして「無謀さ」が残した結末までをわかりやすく解説します。
薩英戦争とは何だったのか
薩英戦争は、1863年(文久3年)に鹿児島湾で発生した、薩摩藩とイギリスの間の武力衝突です。
きっかけとなったのは「生麦事件」でした。横浜郊外の生麦村で、薩摩藩の行列に接近したイギリス人が殺害され、数名が負傷するという事件が起きたのです。
イギリスは当然ながら強く抗議し、幕府と薩摩藩に対して賠償金を要求しました。幕府は賠償に応じましたが、薩摩藩は支払いを拒否しました。
この強硬な態度が、やがて薩摩藩とイギリス艦隊との直接衝突へとつながります。
ここで重要なのは、薩摩藩が自らの威信を守ろうとするあまり、相手が大英帝国という当時の超大国であることを軽視してしまった点です。この「無謀さ」が戦争全体の根底にありました。
無謀さの源泉
薩摩藩の政治的背景
当時の薩摩藩は、幕府から一定の独立性を保ち、国内外に強い存在感を示そうとしていました。
とくに島津家は長い歴史を持つ大名であり、その威信を守ることは藩の政治にとって極めて大切なことでした。
イギリスに屈して賠償金を支払うことで、国内での評価が下がることを恐れました。こうしたメンツの論理が、現実的な判断を曇らせる原因となったのです。
情報不足と国際認識の欠如
もう一つの大きな要因は、外国事情に関する理解の不足です。
薩摩藩の上層部は欧米列強の軍事力や外交の慣習について十分な情報を持っていませんでした。
イギリス艦隊が持つ最新式の軍艦や大砲の威力を正確に把握できず、「こちらも勇敢に戦えば勝機はある」と誤解したのです。
また、国際社会では外交交渉と賠償が当たり前であることを理解できず、藩内の「強硬姿勢」こそが正しいと信じ込んでしまいました。
軍事準備の脆弱さ
さらに問題だったのは軍事的準備の不十分さです。
薩摩藩は西洋式の大砲や艦船を一部導入していたものの、多くは旧式で整備も十分ではありませんでした。兵士の訓練もまだ浅く、近代的な戦闘に対応できる段階にはなかったのです。
指揮系統も整っていなかったため、実際の戦闘では混乱が生じ、英艦隊に対して有効な抵抗ができませんでした。この状況で戦争に突入したこと自体が、無謀さの象徴と言えるでしょう。
開戦に至る決断の無謀さ
賠償金支払い拒否
薩摩藩は、生麦事件の賠償金を求めるイギリスの要求を断固として拒否しました。
幕府がすでに支払いに応じていたにもかかわらず、薩摩藩は「自分たちは幕府に従属する存在ではない」という姿勢を強調するため、あえて強硬にふるまったのです。
ここで注目すべきは、賠償金の支払いが必ずしも不可能ではなかったという点です。薩摩藩には財政的な困難があったものの、分割支払いなどの妥協策はあり得ました。
しかし「威信を守る」という内政的な論理が優先され、現実的な解決策を退けてしまいました。
英国艦隊との交戦選択
さらに無謀だったのは、イギリス艦隊との直接対決を選んだことです。
当時のイギリスは、すでにアヘン戦争を経て清国を屈服させるほどの圧倒的軍事力を誇っていました。
薩摩藩はその力を十分理解せず、「こちらの砲台からの攻撃で十分対抗できる」と考えてしまったのです。
藩内には「戦えば勝てる」という過信が存在しました。これは部分的には、薩摩藩が武勇を重んじる気風を持っていたことや、過去に薩摩が独自に戦った経験に基づくものでした。
しかし、それは近代的軍事力を持つ英国艦隊には通用しないものでした。こうして薩摩藩は、圧倒的に不利な戦いに自ら足を踏み入れることになります。
戦闘の実態と薩摩藩の限界
戦闘経過の実相
1863年8月、イギリス艦隊は鹿児島湾に侵入しました。薩摩藩は砲台から攻撃を開始し、戦闘が始まります。
しかし、イギリス艦の火力は桁違いでした。艦船から放たれる砲弾は薩摩の砲台を次々に破壊し、鹿児島の市街地にも火の手が広がりました。
薩摩藩の大砲は命中精度が低く、また装填や操作に慣れていない兵士が多かったため、十分な成果を上げることができませんでした。
結果として、薩摩藩の攻撃はほとんど効果をもたらさず、逆に城下町が焼き払われていく状況となりました。
薩摩藩の損害
戦闘の結果、薩摩藩は大きな損害を受けました。兵士や市民の死傷者が出ただけでなく、町屋や物資の多くが焼失し、財政的にも壊滅的な打撃を受けました。
また、藩が誇るはずの軍事力がまったく通用しなかったことで、薩摩藩内部には大きな衝撃が走りました。
これまで「力で相手を屈服させる」ことを当然と考えていた藩士たちは、近代戦の現実を目の当たりにしたのです。
戦後の現実と「無謀さ」の結末
薩摩藩の譲歩
戦闘の後、薩摩藩は現実を突きつけられました。
軍事力では到底イギリスに敵わないことを痛感し、最終的に賠償金の支払いを受け入れることになります。
表面的には「引き分け」や「互角の戦い」と藩内で説明されましたが、実態は大きな譲歩でした。
また、事件後の外交交渉では、イギリスとの関係改善を進める方向に舵を切らざるを得ませんでした。戦闘を経て、薩摩藩はようやく欧米列強との対話や交渉の重要性を理解し始めたのです。
「無謀さ」が残した傷跡
薩英戦争による被害は、薩摩藩に深い傷跡を残しました。焼け落ちた町の再建には莫大な資金が必要となり、藩財政はさらに苦しむことになりました。
加えて、藩内の士気にも影響がありました。勇猛さを誇った薩摩藩士たちは、自分たちの武力が近代兵器には無力であることを目の当たりにしました。
この経験は藩の「武勇頼み」の姿勢を打ち砕き、従来の考え方を見直す契機となりました。
一方で、この無謀な戦争の結果として、薩摩藩は「西洋技術を学ばなければならない」という現実に向き合うようになります。
戦後、薩摩はイギリスから最新の武器や軍艦を購入し、留学生を派遣するなど積極的に西洋化を進めていきました。
つまり、無謀さは大きな代償を生んだと同時に、その後の大転換のきっかけともなったのです。
「頭がおかしい」という後世の評価
なぜ「頭がおかしい」と言われたのか
薩英戦争における薩摩藩の姿勢は、現代の一般の人々から「頭がおかしい」と形容されることがあります。
理由は明快で、当時の国際情勢や軍事バランスを無視して、世界最強の海軍国に真正面から挑んだからです。
他藩が慎重に外交を進める中、薩摩だけが「武力で解決できる」と信じ込んだように見える行動は、後世からすれば無謀を通り越して「狂気」とも評されました。
「狂気」と「勇気」の境界線
もっとも、この評価には二面性があります。
確かに結果だけを見れば無謀であり、冷静な判断を欠いていました。しかし一方で、列強相手に一歩も引かない姿勢は、当時の日本にとってある意味「勇気」でもありました。
この「狂気と勇気の紙一重」の行動こそが、後の薩摩藩の躍進につながる皮肉な要素でもあり、歴史の中で語り継がれる所以と言えるでしょう。