薩長同盟をわかりやすく説明→薩摩藩と長州藩が幕府を倒す目的で結んだ軍事同盟

幕末の動乱期、日本の未来を大きく変えた出来事のひとつが「薩長同盟」です。

もともと敵対関係にあった薩摩藩と長州藩が、なぜ手を取り合うことになったのでしょうか。この同盟はどのように成立し、その後の歴史にどんな影響を与えたのでしょうか。

薩長同盟の背景から成立までの道のり、そして果たした役割を、わかりやすく解説していきます。

薩長同盟とは

薩長同盟とは、薩摩藩と長州藩が結んだ軍事的・政治的な同盟のことです。

これまで敵対関係にあった二つの有力藩が手を取り合ったことで、幕府に対抗する大きな力が生まれ、明治維新へとつながる重要な転換点となりました。

この同盟が結ばれたのは1866年(慶応2年)1月、京都においてのことです。

薩摩と長州の代表が集まり、幕府に悟られないよう秘密裏に協定が交わされました。表立って発表できる性質のものではなく、慎重に進められたのです。

中心となった人物は、薩摩藩の西郷隆盛と小松帯刀、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)です。

そして両者のあいだを取り持ち、交渉をまとめ上げたのが土佐藩出身の坂本龍馬でした。龍馬の奔走がなければ、この同盟が実現することは難しかったといわれています。

そのため、薩長同盟の話になると必ず坂本龍馬の名前が語られるのです。

同盟成立の背景

幕末の国内情勢

19世紀半ば、日本は大きな転換点を迎えていました。1853年にペリーが来航して以来、幕府は西洋列強からの圧力にさらされていました。

開国や不平等条約への対応をめぐって国内が揺れ動き、幕府の権威は急速に失われていきます。

その一方で、「幕府に任せていては日本を守れない」という考えを持つ人々が増えていきました。

薩摩藩の立場と課題

薩摩藩は南九州を拠点にする大藩で、藩主・島津久光のもとで強い軍事力を持っていました。

はじめは公武合体(朝廷と幕府の協調)を支持していましたが、やがて幕府の無力さに失望し、独自の動きを見せるようになります。

また、薩摩は西洋の技術を積極的に取り入れ、新式の武器を導入して力を蓄えていました。そのため、幕府に頼らずとも行動できる自信がありました。

長州藩の立場と課題

一方の長州藩は、尊王攘夷(そんのうじょうい)を強く掲げ、幕府に反抗する姿勢を明確にしていました。

1863年には下関で外国船を攻撃し、西洋列強と衝突するなど、強硬な姿勢をとります。

しかしその結果、長州は幕府から二度にわたる討伐(長州征討)を受け、特に第一次長州征討では大きな打撃を受けました。藩は孤立し、存続の危機に立たされていたのです。

同盟成立までの道のり

両藩の対立と接近の経緯

そもそも薩摩と長州は、もともと仲が良い関係ではありませんでした。むしろ敵対していたといっても過言ではありません。

特に長州が尊王攘夷運動を過激に推し進めた結果、京都から追放される「八月十八日の政変」では、薩摩が朝廷側に協力して長州を排除する役割を果たしました。

その後の「禁門の変」(1864年)でも、薩摩軍は長州軍を打ち破っています。つまり両藩は血を流し合った宿敵同士だったのです。

しかし幕府の力が弱まる中で、薩摩も長州も「このままでは日本が西洋列強に飲み込まれてしまう」という危機感を抱くようになりました。

敵同士であっても、共通の目的を持てば手を結ぶしかない状況になっていったのです。

坂本龍馬の仲介

ここで重要な役割を果たしたのが坂本龍馬でした。

龍馬は土佐藩の出身ですが、藩を飛び出して自由に活動し、日本の将来を考えて動いていました。彼は「薩摩と長州が手を組めば幕府に対抗できる」と考え、両者の間を奔走します。

龍馬は西郷隆盛や木戸孝允と信頼関係を築き、直接顔を合わせて話し合える場を整えました。

彼の調整力と行動力がなければ、敵対していた両藩が短期間で歩み寄ることは難しかったでしょう。

同盟締結の具体的な内容

薩長同盟の内容は、次のようなものでした。

  • 幕府が再び長州を攻撃した場合、薩摩は長州を支援する。
  • 倒幕に向けて協力し合う。
  • 双方が幕府に対抗して行動する際には、互いに裏切らない。

つまり、軍事的な協力体制と政治的な信頼関係を築いたのです。これは一時的な協力ではなく、日本の将来を左右する大きな約束でした。

薩長同盟の役割と意義

幕府に対する力の均衡

薩摩も長州も、それぞれだけでは幕府を倒すほどの力を持っていませんでした。

しかし両者が同盟を結ぶことで、軍事力・政治力が大きく結集しました。これにより、幕府と対等、あるいはそれ以上に立ち向かえる勢力が生まれたのです。

倒幕運動の推進力

同盟が結ばれたことで、幕府に不満を抱く他の藩や志士たちも「幕府を倒せるかもしれない」と考えるようになりました。薩長同盟は、倒幕運動全体を加速させる起爆剤となったのです。

明治維新への布石

この同盟があったからこそ、後に明治維新が成功したといっても過言ではありません。

薩摩と長州が中心となり、土佐や他の藩も巻き込むことで、新しい日本の政府を作る力へとつながっていきました。薩長同盟はその第一歩であり、「維新の原動力」を形づくったのです。

同盟後の展開

第二次長州征討の結果

薩長同盟が結ばれた直後、幕府は再び長州を攻めることを決定しました。これが「第二次長州征討」(1866年)です。幕府は全国の諸藩に出兵を命じ、大軍を動かしました。

しかし、状況は第一次長州征討のときとは大きく違っていました。長州は藩内を改革し、武器も最新式のものを揃えていました。

また、薩摩藩が表立って軍を動かさなかったものの、裏で長州を支援し、幕府側の結束は弱まっていました。

さらにこの戦いの最中、将軍・徳川家茂が大阪で病没したこともあり、幕府の指揮は大混乱に陥ります。結果として幕府軍は敗北し、長州は生き残ることに成功しました。

倒幕への加速

長州が再び力を取り戻したことで、幕府の権威は決定的に揺らぎました。薩摩もまた、「幕府に未来はない」とはっきりと認識するようになります。

両藩は倒幕へと本格的に舵を切り、さらに他の勢力とも連携を模索しました。

土佐藩の坂本龍馬や中岡慎太郎らの働きかけによって「大政奉還」や「討幕の密勅」へとつながり、倒幕の動きは一気に加速します。

明治新政府への移行

1867年に徳川慶喜が大政奉還を行い、幕府の政権は朝廷に返上されます。

しかし、その後も旧幕府勢力と新政府勢力の対立は続き、戊辰戦争(1868年~1869年)へと発展しました。この戦いの中心となったのも薩摩と長州でした。

戊辰戦争に勝利後、両藩が主導して新しい政府をつくり、日本は「明治」という新しい時代に進んでいきます。

つまり、薩長同盟は倒幕から新政府樹立までの流れを支える土台となったのです。

揺らぎながらも歴史を変えた約束

薩長同盟は、後に大きな歴史的成果を生んだ一方で、当時としては非常に不安定な約束でもありました。

薩摩と長州の利害は完全に一致していたわけではなく、互いに相手をどこまで信じられるのかという緊張感を抱えながら手を組んでいたのです。

それでもなお協力を選んだのは、幕府の力が弱まり、もはや単独では生き残れないという共通の危機感があったからでした。

結果として、この脆さを抱えた同盟は、日本の政治秩序を大きく揺り動かし、時代を進める原動力となりました。

薩長同盟は、矛盾を内包しながらも歴史を変えた重要なものだったのです。