尊王攘夷運動とは、幕末(19世紀後半)の日本で広がった政治的・思想的な運動のことを指します。
「尊王」とは天皇を尊び権威を重んじること、「攘夷」とは外国勢力を追い払い国を守るという意味です。
この二つを合わせた「尊王攘夷」というスローガンは、多くの志士や藩士を突き動かし、日本の歴史を大きく動かす原動力となりました。
この運動が広がった背景には、1853年にペリー率いるアメリカの艦隊が来航し、日本に開国を迫ったことがあります。
200年以上続いた鎖国体制が崩れ、西洋諸国との接触が避けられなくなった時代、日本人は大きな不安と危機感を抱きました。
幕府が条約を結んで開国に踏み切ると、「外国に屈した」として不満が爆発し、その反発が尊王攘夷という形で広がっていったのです。
つまり尊王攘夷運動は、ただのスローガンではなく、幕府に対する反発、外国への警戒、そして天皇を中心とした新しい秩序を求める思いが結びついた運動だったといえます。
尊王攘夷運動の思想的基盤
「尊王」の考え方:天皇を中心とする国家観
「尊王」とは、天皇を国家の中心に据えるという考え方です。江戸時代を通じて天皇は京都にあり、政治的実権はほとんど幕府が握っていました。
しかし一部の学者や志士たちは、天皇こそが日本の正統な支配者であると強調し、幕府の権威を相対化する思想を広めました。尊王思想は、幕府批判の強力な理論的武器となっていったのです。
「攘夷」の考え方:外国排斥と国防意識
「攘夷」とは、外国勢力を日本から追い払うという考えです。当時の人々は、西洋列強の軍事力や植民地支配の現実を知り、日本も同じように支配されるのではないかと強く恐れていました。
幕府が結んだ条約は不平等なものであり、日本の主権を制限する内容を含んでいたため、攘夷を唱える声は次第に強まっていきました。
学問的背景:儒学・国学・水戸学の影響
尊王攘夷運動を思想的に支えたのが、江戸時代の学問でした。
- 儒学:中国の伝統的な思想で、忠義や秩序を重んじます。これが天皇への忠誠を正当化する根拠となりました。
- 国学:本居宣長らによって発展した学問で、日本の古典や神話に立ち返る思想を広めました。日本独自の精神を大切にする姿勢が、外国排斥の根拠になりました。
- 水戸学:水戸藩で発展した学問で、「天皇を中心とする国家像」を明確に打ち出し、幕末の尊王思想に大きな影響を与えました。
このように、尊王攘夷運動は感情的なものではなく、学問や思想の積み重ねを土台として広がっていったのです。
尊王攘夷運動の歴史的展開
1.開国と幕末社会の動揺
1853年、ペリーが浦賀に来航し、幕府に開国を迫ったことは大きな衝撃でした。長く続いた鎖国政策が破られ、人々は外国との関わりを避けられない現実に直面しました。(ペリー来航)
幕府は翌年に日米和親条約を結び、さらに1858年には不平等条約である日米修好通商条約を締結しました。これにより幕府は「外国に屈した」と批判を浴び、社会全体に不満が広がりました。
特に朝廷や諸藩、学者、志士たちは、幕府の権威そのものを疑うようになり、「攘夷を断行すべきだ」という声が一気に広がっていったのです。まさに幕府の威信が揺らぎ始めた瞬間でした。
2.安政の大獄と思想弾圧
こうした不満が強まる中で幕府の最高権力者となったのが、大老・井伊直弼(いいなおすけ)です。
彼は外交交渉を優先し、条約締結を強行したため、朝廷や反対派から強く批判されました。井伊はその批判を封じ込めるために大規模な弾圧を行いました。これが安政の大獄(1858〜1859年)です。
この弾圧で処刑・投獄されたのは、吉田松陰や橋本左内といった尊王攘夷派の志士や学者たちでした。
幕府にとっては反対勢力を排除する狙いがありましたが、逆に彼らの死は「志を貫いた殉教者」として人々の尊敬を集め、思想をより広める結果になりました。
3.桜田門外の変に象徴される過激行動
尊王攘夷派は言論活動だけでなく、暗殺や襲撃といった過激な行動に出るようになります。1860年の桜田門外の変では、井伊直弼が暗殺されました。
井伊直弼を討ったのは水戸藩や薩摩藩の浪士たちで、彼らは「大老は朝廷を無視して条約を結んだ国賊だ」として行動に出ました。
江戸城の正門近くで大老が討たれるという前代未聞の事件は、全国に衝撃を与え、幕府の権力の限界を人々に強く印象づけました。
こうした過激な行動は以後も続き、京都では尊王攘夷派による要人暗殺事件が相次ぎました。
幕府の支配は次第に不安定化し、尊王攘夷運動は「言葉」から「行動」へと大きく姿を変えていったのです。
4.長州藩・薩摩藩など有力藩の動き
1860年代に入ると、尊王攘夷のスローガンは特に有力な藩の政治に大きな影響を与えました。
長州藩は尊王攘夷の急先鋒となり、1863年には朝廷の攘夷勅命を受けて下関海峡を通過する外国船を砲撃しました。これが後の下関戦争につながります。
長州藩は本気で攘夷を実行に移したわけですが、結果的には外国の強大な軍事力に押され、攘夷の実現がいかに困難であるかを痛感することになります。
薩摩藩も当初は攘夷を掲げていましたが、1863年の生麦事件をきっかけにイギリスとの薩英戦争が勃発し、軍事力の差を思い知らされました。
この経験を通じて薩摩は攘夷から一歩引き、西洋の武器や技術を積極的に取り入れる方向へと転換していきます。
このように、長州は「攘夷の実行」に突き進み、薩摩は「攘夷から近代化」へと切り替えるという異なる対応をとりましたが、最終的には両藩とも幕府への反発で一致し、やがて倒幕の中心勢力となっていきます。
尊王攘夷運動の結果と影響
攘夷から倒幕への転換
尊王攘夷運動は当初、外国を追い払うことを目指していました。
しかし、下関戦争や薩英戦争で西洋列強の圧倒的な軍事力を目の当たりにした結果、単純な攘夷は不可能であることが明らかになりました。
そのため尊王攘夷派の志士や藩は、「外国を追い払う」から「幕府を倒して新しい政府をつくる」へと方向を変えていきました。この転換こそが、明治維新の大きな原動力となったのです。
明治維新への布石としての役割
尊王攘夷運動がなければ、薩摩や長州といった有力藩が幕府に対抗する正当性を得ることは難しかったでしょう。
天皇を尊び外国を排斥するというスローガンは、藩や志士たちをまとめる旗印となり、やがて薩長同盟や倒幕運動へとつながっていきました。
結果的に尊王攘夷はその理想を実現することはできませんでしたが、幕府を揺るがし、新しい国家をつくる道を開いた重要な役割を果たしたと言えます。
政治・思想史における評価
尊王攘夷運動は、単なる外国排斥のスローガンとして軽視されることもあります。
しかし、そこには当時の人々が抱いた切実な危機感や、国を守ろうとする強い意志が込められていました。
また、天皇を中心に据える思想はその後の明治政府に大きな影響を与え、近代日本の政治体制の基盤となりました。
つまり尊王攘夷運動は、短期的には失敗に終わったように見えても、日本が大きく変わるきっかけを作った歴史的な運動だったのです。
尊王攘夷運動のまとめ
尊王攘夷運動とは、幕末の日本で起こった「天皇を尊び、外国を排斥する」という思想に基づく大きな社会運動でした。
- 開国による不安と不満が背景にあり、思想的には儒学や国学、水戸学が支えました。
- さまざまな事件(桜田門外の変、下関戦争、薩英戦争、禁門の変など)を通じて現実性の限界が露わになり、運動の方向は「攘夷」から「倒幕」へと移りました。
- 最終的には明治維新へとつながり、日本の近代化の出発点となりました。
尊王攘夷運動は、外国の圧力に直面したときに日本人がどのように国のあり方を考えたかを示す、非常に重要な歴史の一場面なのです。