ペリー来航をわかりやすく解説!何の目的で黒船はやってきたのか

教科書や歴史の本で必ず目にする「ペリー来航」。

黒い煙を吐きながら港に現れた蒸気船、いわゆる「黒船」の姿に、人々は恐怖と驚きを隠せなかったと伝えられています。

ペリー来航は、二百年以上続いた鎖国体制を終わらせ、日本の歴史を大きく動かす転換点となりました。

けれども、なぜペリーが日本を訪れたのか、幕府はどのように応じたのか、そしてこの衝撃がその後の日本にどのような影響をもたらしたのか――こうした背景や流れまで詳しく理解している人は意外に少ないかもしれません。

本稿では、その時代背景から交渉の経緯、人々が受けた衝撃、さらにその後の日本社会の変化に至るまでを丁寧にたどり、わかりやすく解説していきます。

ペリー来航の背景

世界情勢

19世紀の世界は、ヨーロッパ諸国が急速に勢力を広げていた時代でした。イギリスは産業革命によって世界最先端の工業国となり、インドを植民地化してアジアで強大な影響力を持っていました。

フランスも東南アジアに進出し、オランダはインドネシア周辺の支配を強めていました。西洋諸国にとってアジアは、工業製品を売り込む市場であり、綿花や茶などの原料を確保する場所でもあったのです。

さらに、この時代の国際社会は「軍事力を背景に貿易を強要する」動きが目立ちました。イギリスが清国との間で行ったアヘン戦争(1840〜1842年)はその代表例です。

戦争の結果、清国は南京条約を結び、港を開くことを余儀なくされました。この出来事はアジアの国々に「西洋列強の圧力には抗えない」という現実を突きつけました。

江戸時代の日本の状況

一方の日本は、江戸幕府が200年以上にわたって「鎖国」政策をとり、海外との交流を極力制限していました。

例外的に貿易を認めていたのは、長崎の出島におけるオランダと中国との交易だけでした。

この制限によって国内の平和と秩序は保たれ、独自の文化が発展しましたが、同時に最新の軍事技術や国際情勢への理解を深める機会を失っていたのです。

例えば、大砲や軍艦の技術は西洋諸国で急速に進化していましたが、日本の兵器は江戸初期と大差なく、世界水準からは大きく遅れていました。

また、外交交渉の経験も乏しく、複雑な国際条約に対応できる人材も限られていました。

つまり、19世紀半ばの日本は「平和で安定した社会」を維持していた反面、外からの圧力に対しては非常に脆い立場にありました。

西洋列強が次々とアジアに迫る中、日本は否応なくその波に巻き込まれる運命にあったのです。

ペリー来航の目的

ペリーが来航した目的の背景には、アメリカ合衆国の国益を守り、アジアでの立場を強化するという明確な戦略がありました。

【目的1】日本を捕鯨船の補給基地にするため

まず注目すべきは捕鯨産業の発展です。

19世紀前半、アメリカの捕鯨は世界でも最大規模を誇り、鯨油は照明用の燃料や工業用資源として広く利用されていました。そのため、太平洋一帯には無数の捕鯨船が航行していたのです。

しかし、航海は数年に及ぶこともあり、途中での食料や真水、石炭の補給は不可欠でした。当時の太平洋には安全に寄港できる港が少なく、日本の港はその空白を埋める最適な拠点として注目されました。

【目的2】貿易のための寄港地にするため

次に、アメリカが重視していたのが中国との貿易拡大です。

アヘン戦争後の南京条約によって清国は港を開き、欧米諸国が次々と中国市場に進出していました。

アメリカもこの流れに加わりたいと考えていましたが、東アジア航路を安定的に運用するためには、中継地としての寄港地が必要でした。

日本を利用できれば、中国貿易をより有利に進められると考えられていたのです。

【目的3】国際競争における戦略拠点にするため

さらに、アメリカには国際的な競争への危機感 もありました。

当時、イギリスやフランスといった列強がアジアに勢力を伸ばしており、「日本を押さえること」は単なる補給や貿易以上に、国際的な存在感を示す意味を持っていました。

もし日本を他国に先取りされれば、アメリカはアジアで不利な立場に立たされる可能性があったのです。

こうした理由から、日本はアメリカにとって重要な役割を担う存在と位置づけられました。ペリー来航は、まさにその国益を実現するための行動だったのです。

ペリー来航の経緯

1853年の初来航(浦賀到着)

1853年6月、ペリー提督は4隻の軍艦を率いて江戸湾(現在の東京湾)の浦賀に姿を現しました。

日本の人々は巨大な蒸気船を見て驚き、その黒い船体から「黒船(くろふね)」と呼ぶようになりました。

このときの目的は、すぐに日本を開国させることではなく、アメリカ大統領からの国書を幕府に渡すことでした。国書の内容は、日本に港を開き、燃料や食料の補給をさせること、さらに通商交渉を行うことを求めるものでした。

幕府は突然の外国からの強い要求に混乱しましたが、軍艦の威力を目の当たりにし、すぐに断ることもできませんでした。

そのため「正式な回答は来年にする」として、ペリーをいったん退去させたのです。

翌年の再来航と開国交渉

ペリーは幕府の返答を待つために一度日本を離れましたが、1854年(嘉永7年)に再び日本に戻ってきました。今度は前回よりも多い軍艦を従えて現れ、日本に対する圧力をさらに強めました。

幕府は、もし強硬に拒否すれば戦争になりかねないと恐れました。

当時の幕府は内政問題や財政難を抱えており、強大な軍事力を持つアメリカに対抗する力はありませんでした。そのため、交渉に応じざるを得ませんでした。

交渉は江戸から離れた横浜や下田などで行われ、最終的に条約締結へと進んでいきます。

日米和親条約の締結

1854年3月、幕府はアメリカと「日米和親条約」を結びました。これが日本が近代的な国際条約を外国と結んだ最初の事例です。主な内容は以下の通りです。

  • 下田と箱館(現在の函館)を開港すること
  • アメリカ船が寄港した際に燃料や食料を提供すること
  • アメリカに対して最恵国待遇(他国に与える特権を自動的に与えること)を認めること

この条約によって、日本は長い鎖国体制を終わらせる一歩を踏み出すことになりました。まだ本格的な自由貿易ではありませんでしたが、日本が世界に向けて門戸を開いた象徴的な出来事でした。

ペリー来航が与えた衝撃

人々の黒船への驚きと不安

ペリーが率いてきた黒船は、日本人にとって見たこともない巨大な蒸気船でした。船からは黒い煙が上がり、大砲も装備されており、その迫力は圧倒的でした。

当時の日本人の多くは蒸気船を知らず、「まるで動く城のようだ」と恐れたといわれています。

庶民の間では「黒船が火を吹いて町を焼き尽くすのではないか」といった噂も広まり、社会全体に大きな不安が走りました。

また、この衝撃は芸術や文化にも表れており、浮世絵などでも黒船を題材にした作品が多く描かれています。それだけ人々の心に強烈な印象を残したのです。

政治への影響(幕府の動揺)

幕府にとってペリー来航は大きな試練でした。

それまで幕府は「鎖国政策によって平和を維持する」という方針をとってきましたが、圧倒的な軍事力を背景にした要求にどう対応すべきか、判断が難しかったのです。

もし拒否すれば戦争になり、日本は敗北する可能性が高い。かといって受け入れれば「外国に屈した」として幕府の権威が失われてしまう。

この板挟みの中で、幕府は苦渋の決断として条約を受け入れることになりました。

しかしこの決断は、武士や知識人たちの間で大きな議論を巻き起こしました。

「開国すべきだ」「攘夷(外国を追い払うべきだ)」と意見が分かれ、後に幕府の弱体化や倒幕運動へとつながっていきます。

ペリー来航の結果とその後

開国への道と条約締結の連鎖

日米和親条約を結んだ後、日本はアメリカだけでなく、ロシア・イギリス・フランス・オランダといった欧米諸国とも相次いで条約を結ぶことになりました。

これらの国々も「自分たちもアメリカと同じ権利を得たい」と考えたのです。

ここで結ばれた条約は「安政の五カ国条約」と呼ばれ、日本に複数の港を開かせるだけでなく、外国人に特別な権利(領事裁判権や関税自主権の欠如)を認めさせるものでした。

こうした不平等条約は日本の主権を制限するものであり、国内では強い不満が高まりました。しかし、当時の日本は武力で列強に対抗する力がなかったため、受け入れざるを得ませんでした。

経済・文化への影響

開国によって日本は急速に外国文化の影響を受けるようになりました。具体的には次のようなものがあります。

  • 貿易によって生糸や茶などが輸出され、西洋の綿織物や機械が輸入される
  • 西洋の技術や学問も導入され、医学・兵学・科学などの分野で新しい知識が広まる
  • 服装や食べ物にも変化が現れ、洋服やパンなどが徐々に普及する

一方で、急激な変化は物価の高騰や社会の混乱も招きました。特に庶民の生活には負担が大きく、幕府に対する不満がさらに強まっていきました。

明治維新への伏線

ペリー来航によって開国が始まったことは、日本の歴史を大きく動かすきっかけとなりました。

幕府は列強に対抗する力を持たず、不平等な条約を結ぶしかなかったため、その権威は急速に低下しました。

その結果、尊王攘夷運動(天皇を尊び、外国を打ち払おうとする動き)が全国に広がり、倒幕の動きへと発展していきます。

結び ― 幕末の扉を開いた黒船来航

ペリー来航は、軍事力を背景とした圧力だけが目立ちますが、その裏には外交儀礼や交渉の積み重ねもありました。

幕府はただ押し切られたのではなく、譲歩と引き換えに一部の条件を調整し、時間を稼ぐことで国内の混乱を最小限に抑えようと努力しました。例えば、条約締結の場を江戸から離れた場所に設定したのも、その一例です。

また、この出来事を通じて多くの日本人が初めて外国人と直接出会いました。異国の服装や習慣、贈り物として渡された機械や楽器は、人々に強烈な印象を与えました。

外交交渉にとどまらず、文化的な衝撃も大きかったのです。

こうしてペリー来航は、武力の威圧と文化的な刺激の両面を伴いながら、日本を新しい時代へと押し出しました。

幕末の幕開けを告げたこの事件は、後に続く動乱と改革の序章として、日本史の中で特別な位置を占めています。