鎖国中でも貿易を認められた4つの国、なぜオランダなどの国々だけが許されていたのか

江戸時代、日本は「鎖国」という独自の政策をとり、約200年ものあいだ海外との関わりを大きく制限していました。

「鎖国」と聞くと、すべての国との交流を断ち切り、日本が完全に孤立していたようなイメージを持つ人も多いかもしれません。

しかし、実際にはそうではありませんでした。幕府は自国の安全と秩序を守るために厳しい管理を行いつつも、特定の国々との貿易や交流は続けていたのです。

オランダ、中国、朝鮮、そして琉球王国との取引は、必要不可欠なものであり、文化や学問の発展にも大きな影響を与えました。

今回は、なぜこれらの国々だけが特別に認められたのか、どのような交流が行われていたのかを分かりやすく整理してご紹介します。

貿易制限の仕組み

鎖国政策では、原則として日本人が海外に渡航することを禁止し、外国人が自由に日本へ来ることも厳しく制限しました。

貿易は幕府の監督下でのみ行われ、外国船が自由に出入りすることは許されませんでした。具体的には、長崎の出島など限られた場所に限定されていたのです。

とはいえ、日本は完全に孤立していたわけではありません。生活に必要な物資や知識の多くを国内だけでまかなうことは難しかったため、幕府は慎重に相手国を選び、一定の条件を満たした国との交流は続けていました。

鎖国下で貿易を認められた国々

オランダ

江戸時代、日本とヨーロッパの唯一の窓口となったオランダ人は、長崎の出島という人工島に居住を許され、そこで貿易や生活を行っていました。出島は海に囲まれた小さな三日月形の島で、橋を通じてのみ日本とつながっており、常に幕府の厳しい監視の下に置かれていました。

オランダ商館には、交易品の管理や交渉を行う商人だけでなく、医師や技術者も滞在していました。彼らが持ち込んだ薬品や医書、顕微鏡や地球儀といった器具は、日本の知識人に大きな刺激を与えました。特にオランダ医学は日本に深く根付き、後に蘭学として広まり、西洋解剖学の知識が和訳されていきます。

また、オランダ人は幕府の命令に従って、ヨーロッパや世界の最新情報をまとめた「オランダ風説書」を毎年提出していました。これは海外事情を知るための貴重な情報源であり、日本が世界の動きを完全に見失わずにいられた背景にもなっています。

中国(清国)

中国商人は、長崎の唐人屋敷と呼ばれる居留地に住み込み、貿易を行っていました。

この唐人屋敷は高い壁に囲まれた一画で、出入りは厳しく管理されており、住民の生活も制限されていました。しかしその内部は活気にあふれ、数千人規模の中国人が暮らしていた時期もあったといわれています。

彼らが持ち込んだ品物は、絹や陶磁器、薬材、書物など多岐にわたりました。特に磁器は美術品として人気が高く、日本の焼き物文化にも大きな影響を与えました。さらに、漢方薬の材料や医書は、日本人医師の研究対象となり、東洋医学の発展に寄与しました。

中国商人はまた、祭礼や行事を通じて独自の文化を持ち込み、長崎の町には異国情緒が漂っていました。中国料理や風習も少なからず日本人に影響を与え、国際色豊かな雰囲気をつくり出していたのです。

朝鮮(李氏朝鮮)

朝鮮との交流は、対馬藩が仲介役を担っていました。特に注目すべきは「朝鮮通信使」と呼ばれる大規模な使節団の派遣です。

数百人規模の一行が日本を訪れ、将軍への祝賀や文化交流を行いました。通信使は華やかな衣装で行列を組み、音楽や舞を披露したため、日本各地の人々にとって大きな見世物となりました。

通信使がもたらしたものは外交儀礼だけではありません。儒学や歴史書、漢詩集などの学術的な書物も多く、日本の学問に刺激を与えました。さらに、絵画や工芸品、文房具なども贈られ、日本文化との相互交流が深まりました。

このように、朝鮮との関係は単なる物資のやりとり以上に、文化や知識を伴う豊かな交流の場でもあったのです。

琉球王国

琉球王国は、薩摩藩の支配を受けながらも、中国や東南アジアと交易を続けていました。琉球は「海上交易国家」として発展してきた背景があり、船を使った物流に長けていたのです。そのため、薩摩藩を通じて日本に届けられる品々も多彩でした。

琉球からもたらされた主な品は、砂糖、貝殻、薬草、織物などで、日本では手に入りにくい南方の特産品が重宝されました。特に砂糖は江戸時代の贅沢品であり、茶道や菓子文化の発展に大きく貢献しました。

また、琉球使節の江戸参府は豪華絢爛な行列として人々の目を引きました。絹の衣装や異国風の音楽、舞踊は日本人にとって驚きと憧れを呼び、江戸の町に大きな話題をもたらしました。琉球はまさに「異国の香り」を日本にもたらす存在だったのです。

各国が認められた理由の共通点と相違点

共通点

1. キリスト教布教のリスクが低いこと

江戸幕府が外国を受け入れるかどうか判断する上で、最も重要だったのは「キリスト教を広める危険があるかどうか」でした。

16〜17世紀にかけて、スペインやポルトガルの宣教師が盛んに布教活動を行い、多くの日本人が改宗しました。しかし幕府は、信仰が武士や民衆の忠誠心を揺るがし、国を乱す可能性を恐れました。そのため、布教に積極的な国はすべて締め出されていったのです。

その点で、オランダは徹底して実利主義を貫き、宗教よりも商売を優先しました。中国や朝鮮は仏教や儒教を基盤とした社会であり、キリスト教布教とは無縁でした。

さらに、琉球も独自の宗教観や自然崇拝の文化を持っており、幕府にとって「宗教的な脅威」を感じさせる存在ではありませんでした。

2. 日本にとって必要不可欠な物資や知識を提供できること

幕府が鎖国政策をとりながらも、完全に外国を遮断できなかったのは、どうしても国外からの物資や知識が必要だったからです。

  • 中国からは、絹や陶磁器といった高級品に加え、薬用植物や漢方薬の処方が入ってきました。これらは人々の生活や医療に欠かせないものでした。
  • オランダは、ヨーロッパの最新技術をもたらしました。医学・天文学・航海術といった知識は、日本の知識人にとって刺激となり、のちの近代化の土台となります。
  • 朝鮮は、儒学の経典や歴史書など学術的な書物を伝え、日本の知的基盤を支えました。
  • 琉球は、南方の産物――砂糖や貝殻、薬草などを日本にもたらしました。とりわけ砂糖は贅沢品として高い価値を持ち、江戸の菓子文化を支えることになりました。

このように、それぞれの国が異なる資源や知識を供給したため、幕府にとってなくてはならない存在となっていました。

3. 比較的安定した外交関係を築けること

江戸幕府は「天下泰平」を掲げ、国内の安定を最優先にしました。そのため、貿易相手にも「争いを起こさない安定した関係」が求められました。

特に朝鮮との交流は、豊臣秀吉による朝鮮出兵という負の歴史を克服し、平和的な関係を築き直す象徴でもありました。大規模な通信使の派遣は、幕府にとって「日本が国際的に認められている」という権威の演出にもなったのです。

また、琉球との関係は形式的には「外国からの朝貢」として扱われ、日本が周辺国と友好関係を維持している姿を国内外に示す効果がありました。

オランダや中国に関しても、長崎で幕府の管理下に置かれることで、比較的安定した形で貿易が続けられました。

相違点

共通の条件を満たしながらも、それぞれの国には固有の事情がありました。

  • オランダ:布教を徹底的に避ける実利主義が特徴であり、さらに学問や技術の供給源として価値が高かった。
  • 中国:日常生活に必須の品を輸入できるだけでなく、儒学や漢詩といった文化的権威を持ち、日本の知識人層に強い影響を与えた。
  • 朝鮮:物資よりも外交的・文化的交流が重視され、通信使による儀礼的な訪問は「平和の象徴」として大きな意味を持った。
  • 琉球:薩摩藩に従属する特殊な立場を利用し、南方の交易品を中継する存在となった。外交儀礼的な「進貢」も幕府の権威を高める役割を果たした。

つまり、どの国も「キリスト教布教リスクが低い」という大前提を共有しながら、それぞれが 経済・文化・安全保障 の異なる分野で必要とされたのです。幕府はこの多様な利害を巧みに組み合わせることで、鎖国体制を維持しつつも、外の世界とのつながりを保ち続けました。

象徴としての貿易と交流

江戸幕府がとった鎖国政策は、単に国を閉ざすものではなく、幕府の権威と秩序を守るために細かく設計された「管理された国際関係」でした。

長崎に置かれた出島や唐人屋敷は、その象徴といえる存在です。ここでオランダや中国の商人は厳しい監視下に置かれ、貿易の量や範囲も幕府によって綿密に制御されていました。

オランダ商館長が数年ごとに江戸へ参府し、将軍に拝謁する「江戸参府」は、幕府が西洋の国を従わせているように見せる儀式として大きな意味を持ちました。

同様に、朝鮮通信使や琉球の進貢使節の来訪も、華麗な行列や儀礼を通じて将軍の威信を広く国内に示す役割を果たしました。

これらの交流は単なる経済的利益にとどまらず、政治的な象徴としても機能していたのです。

鎖国下の貿易は、経済・学問・文化の発展を支えると同時に、幕府の統治体制を強化する装置でもありました。

オランダ、中国、朝鮮、琉球という限られた相手との関係を慎重に選び、管理することで、日本は長期にわたり安定した社会を維持することができたのです。