大政奉還をわかりやすく説明→将軍が天皇に国を治める権利を返したこと

大政奉還とは何かを、わかりやすく説明します。

大政奉還とは何か

言葉の意味をやさしく解説

大政奉還とは、江戸幕府の将軍であった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、自分の持っていた政治の権力を朝廷に返した出来事です。

ここでいう「大政」とは、国の政治を行う権利を意味します。武士のリーダーである将軍は、長い間その「大政」を握っていました。

そして「奉還」とは「お返しする」ことを意味します。

したがって、大政奉還という言葉は「国を治める力を、天皇を中心とする朝廷にお返しします」という意味になります。

この出来事によって、約260年続いてきた江戸幕府の体制が事実上終わりを迎え、日本の政治の中心が武士から朝廷へ移っていく流れが生まれました。

誰が、いつ、なぜ行ったのか

先ほども触れましたが、大政奉還を行ったのは、第15代将軍の徳川慶喜です。時期は1867年(慶応3年)10月のことでした。

慶喜は、幕府を守るために戦いを仕掛けるのではなく、政権を返上するという平和的な方法を選びました。

その背景には、いくつかの要因がありました。

  1. 外国の圧力:開国を迫る欧米諸国に対し、幕府の対応が十分でなかったため、人々の信頼を失っていました。
  2. 藩の不満:特に西日本の有力な藩(薩摩や長州など)が幕府に反発し、新しい政治体制を求めていたました。
  3. 徳川家を守るための戦略:戦争をすれば多くの犠牲が出るうえ、徳川家そのものが滅ぼされかねません。慶喜は政権を返すことで、徳川家が新しい時代にも一定の地位を保てる可能性を残そうとしました。

このように、大政奉還は「幕府を完全に守る」ためというよりも、「争いを避け、徳川家が形を変えてでも生き残る」ための現実的な選択だったといえます。

大政奉還が行われるまでの流れ

江戸幕府の誕生から衰退まで

江戸幕府は1603年、徳川家康が開いた武家政権です。以来、15代にわたって約260年間続き、日本は「江戸時代」と呼ばれる安定した時期を過ごしました。

しかし19世紀に入ると、その支配体制は揺らぎ始めました。

大きな転機は1853年のペリー来航です。アメリカから黒船が来航し、日本に開国を求めました。

幕府はこれに応じて条約を結びましたが、内容は日本に不利なものが多く、人々の不満を呼びました。

さらに外国との貿易によって経済が混乱し、物価が高騰して庶民の生活も苦しくなっていきました。こうした状況が幕府の信頼を大きく損ない、衰退を加速させました。

幕末に登場した志士たちの動き

幕府の力が弱まる中、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」を掲げる志士たちが、全国で活動しました。

  • 尊王:天皇を大切にし、天皇中心の政治を実現すること。
  • 攘夷:外国の圧力をはねのけ、外国勢力を排除すること。

彼らは「幕府では外国から国を守れない」と考え、政治の主導権を幕府から取り上げ、新しい体制をつくろうとしました。

特に長州藩や薩摩藩の若い武士たちがその中心となり、倒幕運動を進めていきました。これらの動きが幕府を追い詰める大きな力となったのです。

薩摩・長州の連携と徳川慶喜の決断

当初、薩摩藩と長州藩は敵対していました。しかし1866年、坂本龍馬らの仲介により両者は「薩長同盟」を結び、幕府に対抗する強力な勢力を形成しました。

この連携は、幕府にとって最大の脅威となりました。

一方で、徳川慶喜は優れた政治感覚を持っていました。彼は武力で戦っても勝算が少ないことを理解しており、あえて政権を自ら返すことで、徳川家の立場を守ろうとしました。

軍事力に頼るのではなく、政治的な判断で新しい時代に適応しようとしたのです。こうして、慶喜は大政奉還を決断しました。

大政奉還の内容と仕組み

「政権を朝廷に返す」とはどういうこと?

大政奉還は、江戸幕府が持っていた「政治の最高決定権」を、天皇を中心とした朝廷に返すことを指します。

ここで重要なのは、単に徳川慶喜が将軍の座を退いたというだけでなく、日本の統治の仕組みを根本から変える意味を持っていたという点です。

江戸時代までは、形式上は天皇が日本の最高権力者でしたが、実際には幕府が政治を行っていました。慶喜が大政奉還を行ったことで、表向きも実際も「天皇が政治の中心」となったのです。

これは、約260年にわたる幕府政治の終わりを告げ、新しい政治体制への扉を開く第一歩でした。

また、慶喜の狙いには「幕府が全く消えるのではなく、新しい体制の中で徳川家も影響力を保つ」という思惑もありました。

政権を返上しながらも、徳川家が主導的立場を失わずに済む道を探ったとも言えます。

手続きや場所(京都・二条城での出来事)

大政奉還は、1867年10月14日、京都の二条城で行われました。

ここで慶喜は、各藩の重臣たちを集め、自らの考えを正式に表明しました。その内容は、「これまで幕府が握っていた統治権を朝廷へ返す」というものでした。

その後、慶喜はこの意向を文章にまとめ、朝廷へ提出します。朝廷側もこれを受け入れ、翌15日には正式に「政権返上」を承認しました。

こうして、手続きとしても幕府から朝廷への権力移行が成立しました。

このとき大きな争いや戦闘は発生せず、平和的に権力が移動した点が特徴です。

多くの政権交代は戦いや武力によって行われることが多い中、大政奉還は将軍自らの判断によって行われた稀有な例といえます。

さらに、舞台となった二条城は江戸時代初期に徳川家康が造営した城であり、その場所で幕府の終わりを告げる決断が下されたことは、歴史の象徴的な場面となりました。

大政奉還の結果とその後の影響

幕府はどうなったのか

大政奉還が行われた1867年10月の時点で、江戸幕府は名目上その政治的役割を終えることになりました。しかし、幕府が直ちに完全消滅したわけではありません。

徳川慶喜は依然として広大な領地(約700万石)と軍事力を保持しており、新体制の中でも影響力を維持しようとしました。

慶喜の狙いは「政権は返すが、徳川家は有力な大名として新政府に参画する」というものでした。つまり、徳川家を完全に排除するのではなく、あくまで政治の中心に残り続けようとしたのです。

しかし、実際の流れは慶喜の思惑とは異なりました。翌1868年に「王政復古の大号令」が発せられると、幕府は制度として完全に廃止され、徳川家も政治の中心から排除されていきました。

その後、慶喜は「恭順(きょうじゅん)」の姿勢を示し、最終的には静岡に隠居することで徳川家の存続を図ることになります。

明治新政府の誕生につながった流れ

大政奉還によって形式上は政治の権限が朝廷に戻りましたが、その段階では新しい政治の仕組みが明確に定まっていたわけではありませんでした。江戸幕府に代わる新体制をどのように築くかは、大きな課題として残されていました。

その状況を大きく動かしたのが、1868年1月3日に発せられた「王政復古の大号令」です。これは朝廷によって出された宣言で、主に次のような内容を含んでいました。

  1. 幕府の完全な廃止
    徳川家を中心とする幕府体制を正式に終わらせることが宣言されました。これにより、260年以上続いた武家政権は名実ともに幕を閉じました。
  2. 新政府の樹立
    天皇を中心としつつ、有力諸藩の代表を加えた新しい政治体制が立ち上げられました。ここでは、薩摩藩・長州藩・土佐藩など、幕府を倒そうと動いた藩が主導的な役割を担いました。これにより、旧来の幕府に代わって「天皇親政」が始まることとなりました。
  3. 政治機構の再編成
    公卿や有力藩士から成る「三職八局」と呼ばれる新しい政治機関が設けられ、立法・行政・司法に近い役割を分担しました。これにより、新政府は従来の幕府政治とは異なる仕組みを整え始めました。

さらに新政府は、明治時代の近代国家建設へとつながる重要な改革を次々と実行していきます。

  • 五箇条の御誓文(1868年)
    明治天皇が発した国の基本方針で、「広く人材を登用すること」「国民みんなで政治に参加すること」「知識を世界に求めて学ぶこと」などが示されました。これは、新政府が封建的な秩序にとらわれず、開かれた方向性をめざす意思を表しています。
  • 版籍奉還(1869年)
    諸藩の大名が領地と領民を朝廷に返上する制度です。大名は形式的に「知藩事」という役職に任じられ、引き続き藩の統治を行いましたが、土地と人民は国家のものと位置づけられました。これにより、幕藩体制から中央集権体制への道が開かれました。

こうした一連の動きは、すべて「大政奉還」という慶喜の決断があったからこそ可能になったものです。

大政奉還が「幕府政治の終わり」を告げ、その上に「王政復古の大号令」が重なったことで、明治新政府は正式に誕生し、近代国家への基盤を築くことができました。

大政奉還が残した歴史的な意味

大政奉還は、徳川慶喜の決断によって平和的に幕府体制を終わらせる道を開いた出来事でした。しかし、これで完全に争いがなくなったわけではありません。

翌1868年には、旧幕府勢力と新政府軍の間で「戊辰戦争」が始まり、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争を経て、最終的に江戸城無血開城に至りました。この戦いを通じて、新政府は国内の主導権を確実に掌握していきました。

一方で徳川家も完全に滅び去ったわけではなく、慶喜は静岡に移され、大名としての地位を保ちながら余生を過ごしました。

幕府という政治体制は消滅しましたが、徳川家は日本社会の中で一定の立場を残し続けたのです。

このように、大政奉還は単なる権力の返上ではなく、日本が新しい政治体制へ移行する過程で不可欠な一歩でした。

その後に続く戊辰戦争や明治新政府の改革を経て、日本は近代国家への道を歩み始めました。大政奉還はその大きな転換の出発点として、日本史における重要な位置を占めています。