「安政の大獄」をわかりやすく説明→幕府に反対する人間を処刑しまくること

安政の大獄を一言でいうと、幕府が反対派を次々と処刑したり、抑え込んだ一連の出来事です。

安政5年(1858年)から安政6年(1859年)に起こったのでこの名前となっています。この出来事は、その後の日本の政治や思想に大きな影響を与えました。

一見するとただの「弾圧事件」に思えますが、その背景には開国をめぐる国際的な圧力、幕府内の権力争い、そして新しい時代を求める人々の思いが複雑に絡み合っていました。

ここでは、安政の大獄が起きた理由、処罰された人々、そして日本史に残した影響を、できるだけわかりやすく解説していきます。

安政の大獄が起きた背景

ペリー来航と開国問題

1853年、アメリカのペリー提督が黒船を率いて浦賀にやってきました。

「開国して貿易を始めてほしい」という強い要求に対し、当時の日本は200年以上続けてきた鎖国体制をどうするか、重大な決断を迫られます。

幕府は最終的に1858年、「日米修好通商条約」を結びました。

しかし、この条約は天皇の許可を得ないまま締結されたもので、多くの人が「幕府は勝手に国を売り渡した」と反発しました。

そのため、幕府の威信は揺らぎ、開国をめぐって賛否が大きく分かれることになります。

幕府内の権力構造

この時期の幕府の中では、将軍・徳川家定の後継者をめぐる争いが起きていました。

紀州藩の徳川慶福(のちの家茂)を推す「南紀派」と、水戸藩出身の一橋慶喜を推す「一橋派」が激しく対立していたのです。

ここで大きな力を持ったのが、大老という役職に就いた井伊直弼(いいなおすけ)でした。

井伊は「南紀派」を支持し、慶福を将軍に決めると同時に、日米修好通商条約の締結にも踏み切りました。

こうして井伊直弼は強力な権限を手に入れますが、それに反発する人々も少なくありませんでした。

安政の大獄とは

事件の発生経緯

井伊直弼は、大老として幕府の実権を握ると、自らの政策に反対する勢力を徹底的に抑え込もうとしました。

とくに問題となったのは、将軍継嗣問題で「一橋派」を支持した公家や大名、そして条約締結に反対した知識人や志士たちです。

井伊は彼らを「幕府に従わない不忠者」とみなし、処罰の対象としました。これが1858年から始まった「安政の大獄」です。

つまり、安政の大獄とは井伊直弼による反対派の大規模な弾圧であり、幕府が政敵を排除するための政治的事件だったのです。

処罰の実態

安政の大獄で処罰を受けたのは、公家、大名、武士、学者、思想家と幅広く、100人を超える規模にのぼりました。

その中でも重い処分を受けた人々は、投獄されたり、斬首や切腹を命じられたりしました。

たとえば、京都では尊王攘夷(そんのうじょうい)の思想を持つ公家が処罰され、江戸や諸藩でも学者や若い志士たちが捕らえられました。

処罰の厳しさは、人々に大きな恐怖を与えると同時に、逆に幕府への不信感を強める結果にもつながりました。

処罰された主要人物

安政の大獄では100名を超える人々が処罰されましたが、とくに後世に大きな影響を残したのは、思想家や教育者、さらには朝廷の高官でした。

彼らはそれぞれ異なる立場から幕府に意見を唱えていましたが、共通して「新しい時代を切り開こうとする強い志」を持っていました。

ここでは代表的な三者を取り上げ、その生涯と処遇を見ていきます。

橋本左内

福井藩出身の医師であり思想家だった橋本左内(はしもとさない)は、開国や西洋の技術導入に積極的な考えを持っていました。

若くして藩の政治に関わり、一橋派を支持していたことから処罰の対象となり、わずか26歳で処刑されました。

彼の死は「優れた人材を失った」として、後に多くの人々から惜しまれました。

吉田松陰

長州藩出身の吉田松陰(よしだしょういん)は、熱心な教育者であり、弟子たちに尊王攘夷の思想を教えていました。

彼は実際の行動力にもあふれており、かつては黒船に乗り込んで海外に渡ろうとしたこともあります。

幕府にとっては危険な存在とみなされ、安政の大獄の際に捕らえられて刑死しました。

彼の思想は弟子の高杉晋作や伊藤博文らに受け継がれ、のちの明治維新へとつながっていきます。

近衛忠煕・その他の公家

京都の朝廷でも、幕府に反対した公家たちが厳しく処分されました。

その代表が、関白を務めた近衛忠煕(このえただひろ)です。彼は一橋派を支持していたため失脚し、政治的な影響力を奪われました。

このように、公家にまで弾圧が及んだことで、事件は「幕府対公家・大名・志士」という広範な対立へと発展しました。

安政の大獄が残した影響

政治への影響

安政の大獄によって井伊直弼は一時的に権力を強化しましたが、長期的には逆効果を生みました。
多くの有能な人物を失ったことで、幕府の将来性はかえって弱まっていきます。

さらに、大獄で命を奪われた人々の遺志は、志士や若い武士たちの心に強く刻まれました。

井伊直弼自身も1860年に「桜田門外の変」で暗殺されますが、その背景には安政の大獄で処罰された人々の仲間や同士の怒りがあったのです。

つまり、大獄は幕府の権威を守るどころか、倒幕運動を加速させる引き金となりました。

社会への影響

幕府の強硬なやり方は、人々に「幕府は民意を無視している」という印象を与えました。

その結果、尊王攘夷運動はさらに広がり、全国で反幕府の気運が高まっていきます。

また、橋本左内や吉田松陰のような若く才能ある人物が処刑されたことは、「幕府は未来を担う人材をつぶした」として強い批判を呼びました。

彼らの思想や教育を受け継いだ弟子たちが後に明治維新を担ったことを考えると、安政の大獄は「志を消すどころか、より強く燃え上がらせた」出来事だったといえるでしょう。

歴史的評価

安政の大獄は、当時の幕府がとった大規模な弾圧策として、歴史上強い印象を残しています。その評価は一面的ではなく、大きく二つの立場から語られることが多いです。

強権による安定維持という評価

一つの見方は、「国の秩序を守るためにやむを得なかった」という評価です。

1850年代の日本は、開国か攘夷かをめぐって国内が大きく揺れ動いており、政治的な混乱が続いていました。

幕府としては、反対派を放置すれば国論が分裂し、外国との交渉もままならなくなる危険があったのです。

そのため、井伊直弼が強硬な手段で反対勢力を抑え込んだことは、「国難の時代における安定維持」として理解できる、という立場があります。

弾圧による反発拡大という評価

もう一方の見方は、「弾圧がかえって幕府の信頼を失わせた」という評価です。

有能な人材を次々と処刑したことで、幕府の将来性は弱まり、むしろ反幕府感情を高める結果となりました。

とくに吉田松陰や橋本左内のような人物の死は、志士たちの怒りや悲しみをかき立て、倒幕運動の原動力となります。

結果的に、幕府が守ろうとした秩序は長く続かず、安政の大獄そのものが幕府崩壊への伏線となったのです。

幕末史における安政の大獄の位置づけ

安政の大獄は、江戸や京都に限らず、日本各地に影響を及ぼしました。

藩士や学者、さらに地方で活動していた志士たちにまで処罰の手が伸びたことで、事件は全国規模の不安と緊張を生み出しました。

地方の藩校や私塾にまで幕府の監視が強まったことは、学問や言論活動に萎縮をもたらし、多くの人々に「幕府は異論を許さない」という印象を与えました。

また、この事件は国際関係とも切り離せません。幕府が急いで反対派を弾圧したのは、条約を結んだ以上、国内の反対勢力を抑えて外国に対して統一した姿勢を見せる必要があったからです。

つまり、安政の大獄は内政上の権力闘争であると同時に、開国をめぐる国際的な圧力への対応策でもあったのです。

結果として、この弾圧は幕府を一時的に安定させたものの、長期的には逆効果を生み、日本の政治状況をさらに不安定化させました。

安政の大獄は、幕末の動乱を象徴する出来事であり、その後の桜田門外の変や尊王攘夷運動の拡大、さらには倒幕の機運へとつながる大きな転換点となったのです。