南北朝時代は、天皇が二つに分かれて対立していた時期です。その混乱のさなかに起きたのが「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」です。
これは室町幕府の内部で起きた大規模な争乱で、将軍・足利尊氏と弟の足利直義、そして有力家臣の高師直が主な登場人物でした。
この争いは単なる兄弟の対立ではなく、幕府の仕組みや全国の武士の在り方にまで大きな影響を与えました。
観応の擾乱の背景から原因、そして結果までをわかりやすく解説していきます。
観応の擾乱の背景
南北朝の対立
観応の擾乱が起きた頃、日本はすでに南北朝に分かれて争っていました。南朝は後醍醐天皇の流れをくむ勢力で、吉野を拠点にしていました。
一方、北朝は京都に拠点を置き、室町幕府に支えられていました。両者は皇位の正統をめぐって対立し続けており、全国の武士たちは南朝と北朝に分かれて戦っていたのです。
このように国全体が混乱状態にある中で、幕府内部の争いが表面化する土台がすでに整っていたといえます。
室町幕府の成立事情
もうひとつの背景は、室町幕府そのものが安定していなかったことです。
足利尊氏はもともと後醍醐天皇に協力して鎌倉幕府を倒しましたが、その後に始まった「建武の新政」に失望して離反し、独自に幕府を開きました。
しかし、武士たちの土地や所領をどう分配するかについては常に不満が渦巻いていました。
また、尊氏と直義の兄弟関係は表面上協力していても、実際には方針の違いから対立を深めていったのです。
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擾乱の原因
将軍権力と執事権力の対立
観応の擾乱の背景には、将軍・足利尊氏と、幕府の執事・高師直の関係性がありました。高師直は尊氏に強く信頼され、戦場でも政治の場でも大きな力をふるいました。
彼は恩賞の配分や所領の裁定など、武士にとって最も重要な利害に関わる部分を自ら決めてしまうことが多く、そのために多くの不満が蓄積していきました。
特に、戦功を挙げても師直の裁量で正当に評価されない、あるいは逆に師直の側近ばかりが優遇されるといった事態が相次ぎました。
こうした不公平感は、一部の武士だけでなく有力な守護大名にまで広がり、師直への反感は次第に「尊氏を支える幕府そのものへの不満」へと変質していきました。
表面的には将軍が権力を握っているように見えても、実際には執事の高師直が政策を主導していたため、幕府は「将軍と執事の二重権力」のような状態になっていました。
これが尊氏と直義の不和をさらに深刻化させる要因となったのです。
幕府内部の派閥争い
もうひとつの大きな要因は、尊氏の弟・足利直義の存在です。直義は実務能力に優れ、裁判や政務を担当することで武士からの信頼も厚く、尊氏とは異なる支持基盤を持っていました。
しかし、直義は高師直の振る舞いを「幕府を私物化するもの」として強く非難し、尊氏に師直を排除するよう求め続けました。
その結果、幕府内は「尊氏と師直を中心とする実力派」と「直義を支持する行政派」に二分されました。この派閥争いには、多くの守護大名も巻き込まれました。
彼らは恩賞の配分や所領の保障を受けるために、自分に有利な側につくことを選びました。
尊氏派につく者もいれば、直義派に属して師直の排除を望む者もあり、武士たちの立場は入り乱れていきました。
こうして、観応の擾乱は「兄弟の確執」という個人的な問題にとどまらず、武士階級全体の利害を巻き込んだ大規模な対立構造へと発展していったのです。
擾乱の経過
観応元年の衝突
観応元年(1350年)、尊氏と直義の関係はついに決定的な破綻を迎えました。直接の引き金は、高師直の横暴に対する反発でした。
師直は所領の再分配で強引なやり方を取り、しかも尊氏の威光を背景にしていたため、誰も表立って逆らうことができませんでした。
これに不満を募らせた直義は、ついに師直を排斥する行動に出ました。
直義は周囲の有力な武士に呼びかけ、師直に反発する勢力をまとめ上げました。これに対し、尊氏は将軍権威を盾に師直を全面的に擁護しました。
結果として、幕府の政権中枢は「師直支持の尊氏派」と「師直排除を目指す直義派」に真っ二つに割れ、武力衝突を避けられない状況となったのです。
尊氏・直義兄弟の対立
戦いは、尊氏と直義という兄弟の直接的な対決の形を取りました。開戦当初は尊氏が有利に戦いを進め、直義は京都から退き、一時的に失脚しました。
しかし、直義はその後も諦めず、各地の有力武士や守護を味方に引き入れ、反撃の体制を整えます。
その過程で大きな転機となったのが、高師直の最期でした。直義方の武将・上杉憲顕らが攻勢に出て、1351年、師直を討ち取りました。
この出来事によって尊氏の支柱ともいえる存在を失い、直義の勢力は一気に盛り返しました。
ただし、その後も事態は一方的には進みません。尊氏は直義に和解を持ちかけて一時的に政権を譲るものの、再び両者は対立し、戦いは終息する気配を見せませんでした。
勝敗が幾度も入れ替わるため、武士たちの忠誠心も揺れ動き、混乱はさらに拡大していきました。
内乱の拡大
この兄弟の争いは、やがて国内全体を巻き込む大きな戦乱へと広がりました。南朝は幕府の分裂を好機ととらえ、直義に接近して支援を行いました。
これにより、直義派は「南朝の後ろ盾を得た勢力」としてさらに正当性を主張できるようになりました。
その結果、全国の武士は「南朝か北朝か」という選択に加え、「尊氏派か直義派か」という新たな立場を迫られました。
地域ごとに立場が分かれ、同じ一族の中でも支持が分裂する例も少なくありませんでした。
こうして観応の擾乱は、単なる幕府内部の対立を越え、南北朝の対立と複雑に絡み合った全国規模の戦乱へと発展していったのです。
結果
尊氏側の勝利
長引いた争乱は最終的に尊氏側が優勢となりました。
1352年には直義が再び敗北し、その後まもなく病死しました。これにより、幕府内部で直義派は大きく力を失い、尊氏の権威が再び確立されることになります。
しかし、その過程で尊氏の信頼を支えていた高師直は討たれており、尊氏自身も弟を失うこととなりました。勝利したとはいえ、多大な犠牲と深い傷を残す結果になったのです。
室町幕府の体制変化
観応の擾乱は、幕府の体制そのものにも大きな影響を与えました。
尊氏は勝利しましたが、守護大名たちは戦乱を通じて独自の力を強めました。各地で軍事力や支配権を固め、自らの判断で動くことが増えていったのです。
この傾向は、のちに戦国時代へとつながる「守護大名の自立化」の始まりといえます。観応の擾乱は、幕府の中央集権的な体制が揺らぐ契機となった出来事でした。
観応の擾乱が示した幕府の限界
観応の擾乱は、単に将軍家の兄弟対立として語られがちですが、その実態はもっと多層的なものでした。
尊氏・直義の不和は、個人的な感情の衝突だけでなく、土地の再分配や人事をめぐる利害関係、さらに執事高師直の専横による政治不満が絡み合っていました。
また、この争乱は幕府の内部にとどまらず、南朝という外部勢力に利用された点も重要です。南朝は混乱を巧みに突いて勢力を回復しようとしました。
観応の擾乱は、南北朝の大きな対立構造と幕府内部の亀裂が重なり合った結果、生じた大規模な内戦だったのです。
この出来事を経て、室町幕府は将軍による一元的な支配を確立できず、各地の守護が独自に権力をふるう傾向が顕著になっていきました。
つまり観応の擾乱は、武家政権の統治のあり方が「中央集権」から「地方分権」へと傾いていく転換点のひとつだったといえます。