中先代の乱とは?後醍醐天皇の政権を揺るがせた大乱をわかりやすく解説

日本史の中で「建武の新政」と呼ばれる時代があります。これは鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、新しい政治体制を築こうとした短い期間を指します。

しかし、この新しい政治は順風満帆ではなく、各地で不満や反乱が起こりました。その中でも大きな事件が「中先代の乱」です。

この乱は、鎌倉幕府を滅ぼされた北条氏の遺臣が中心となって起こした反乱で、わずかな期間のうちに鎌倉を奪還するほどの勢いを見せました。

本記事では、この乱の背景から経過、そしてその結果までを、できるだけわかりやすく整理してご紹介します。

中先代の乱とは何か

乱の発生時期と地理的背景

中先代の乱は、1335年(建武2年)に起こった大規模な反乱です。舞台となったのは主に関東地方で、とくに鎌倉が中心地でした。

鎌倉幕府が滅亡したのは1333年のことですが、そのわずか2年後に鎌倉を舞台とした新たな戦乱が勃発したことになります。

この乱を起こしたのは、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の遺児である北条時行でした。

鎌倉を追われた北条一族は完全に滅びたわけではなく、各地に潜伏して再起の機会を狙っていたのです。そのため、幕府を滅ぼした側にとっても、関東はまだ不安定な地域でした。

建武政権下における政治状況

鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は「建武の新政」と呼ばれる中央集権的な政治を始めました。

しかし、その政治は武士たちの期待を裏切るものでした。功績を立てた武士が十分な恩賞を得られなかったり、土地支配の在り方が大きく変えられたりしたため、不満が広がっていきました。

特に関東の武士たちは、長年北条氏のもとで政治を行ってきたこともあり、後醍醐天皇の新しい政治体制に馴染みにくかったといえます。

そうした不満がくすぶる中で、中先代の乱は火を噴いたのです。

中先代の乱の原因

鎌倉幕府滅亡後の武士の不満

1333年、鎌倉幕府は倒され、長く続いた武家政権は終わりを迎えました。

しかし、その後に始まった建武の新政は、武士にとって必ずしも望ましいものではありませんでした。

これまで土地を分け与えられ、実力に応じて褒美を得ることが当たり前だった武士たちにとって、天皇中心の政治は窮屈に感じられたのです。

とくに、幕府の滅亡に大きく貢献した武士の中には、恩賞を受けられなかった者や、期待した土地を与えられなかった者も多く、不満が積もっていました。

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北条氏残党の再起を望む動き

鎌倉幕府を支えてきた北条氏は、滅亡後に多くが討たれましたが、そのすべてが消え去ったわけではありませんでした。

各地に散らばった北条氏の一族や家臣たちは、再び力を取り戻す機会をうかがっていました。

北条高時の遺児・北条時行は、父の仇を討つとともに北条氏の再興を掲げ、旧幕臣や関東の武士を集めて挙兵しました。

鎌倉に根強い北条への支持が残っていたことが、この乱の大きな背景となっています。

建武政権の統治方針と摩擦

建武の新政では、後醍醐天皇が天皇親政を掲げ、貴族的な色彩の濃い政治を行いました。

しかし、これまで地方で力を持ち続けてきた武士にとっては、自らの役割が軽んじられたように映りました。

土地支配のルールも大きく変えられ、従来の「地頭」などの仕組みが廃止されるなど、武士たちの生活基盤に直結する改革が進められたのです。

こうした摩擦が、北条残党の呼びかけに応じる土壌を生み出しました。

中先代の乱の経過

北条時行の挙兵

1335年、北条時行は信濃(現在の長野県)で挙兵しました。父の高時を失いながらも、旧幕臣や関東武士たちの支持を受けて兵を集め、勢力を急速に拡大しました。

彼らは「幕府再興」を掲げ、建武政権に対抗する旗印を鮮明にしました。

鎌倉奪還と政権への脅威

北条時行の軍勢は勢いを増し、ついに鎌倉を制圧することに成功します。これは後醍醐天皇の政権にとって大きな衝撃でした。

鎌倉は東国統治の拠点であり、そこを奪われることは政権の支配が大きく揺らぐことを意味しました。短期間で鎌倉を失った建武政権は、危機に立たされたのです。

足利尊氏の動向と乱の収束

この混乱の中で重要な役割を果たしたのが、足利尊氏です。尊氏は当初、建武政権の側に立って北条討伐を行いました。

しかし、彼の行動は次第に独自性を帯び、やがて自らの勢力拡大へとつながっていきます。

尊氏は北条軍を鎮圧し、時行を追い払い乱を収束させましたが、その後、建武政権との対立を深め、やがて南北朝時代の大乱へと進んでいくのです。

中先代の乱の結果

北条時行の敗走とその後

鎌倉を奪還した北条時行でしたが、その勢いは長く続きませんでした。足利尊氏の軍勢に押し返され、再び敗走することになります。

時行は生き延びたものの、北条氏の復活という目標は果たせませんでした。その後も各地で活動を続けましたが、大きな力を取り戻すことはできませんでした。

建武政権への打撃

中先代の乱は建武政権に深刻な打撃を与えました。鎌倉を一時的にでも奪われたことは、東国における支配力の弱さを露呈したからです。

関東武士の多くが北条氏の再興に呼応したことは、建武政権が地方の支持を十分に得られていなかったことを示しています。この乱をきっかけに、政権への不満はますます高まりました。

南北朝動乱へのつながり

乱を鎮めた足利尊氏は、その後の行動によって後醍醐天皇と決定的に対立するようになりました。

中先代の乱は直接的には北条氏の反乱でしたが、結果的に足利尊氏が力を伸ばすきっかけとなり、やがて南北朝時代という大きな内乱へとつながっていきます。

つまり、この乱は日本史における長い動乱時代の入口となった出来事でした。

中先代の乱の主要人物

北条時行

北条時行は、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の子でした。幕府滅亡後に潜伏しながら再起を図り、中先代の乱で鎌倉を奪還するほどの勢いを見せました。

しかし最終的には敗北し、その後も各地で抵抗を続けながら波乱の生涯を送りました。

後醍醐天皇

建武の新政を進めたのが後醍醐天皇です。天皇中心の政治を実現しようとしましたが、武士層の期待を裏切る政策が多く、不満を招きました。

中先代の乱は、その政治体制の不安定さを露呈させた事件でもありました。

足利尊氏

中先代の乱の鎮圧で大きな役割を果たしたのが足利尊氏です。当初は建武政権の武将として北条討伐に動きましたが、その後は後醍醐天皇と対立し、独自の政権を築いていきます。

尊氏の動きは、この乱の結末を超えて、日本史の流れを大きく変えることになりました。

中先代の乱が映し出した東国武士の実力

中先代の乱は、鎌倉幕府が滅んでからわずか二年後に発生した大規模な戦乱でした。この短い期間に再び鎌倉が戦火に包まれたこと自体、当時の社会がいかに不安定であったかを物語っています。

乱の大きな特徴は、鎌倉を中心とした東国武士の動きにあります。幕府時代から築かれてきた彼らの生活や価値観は、建武政権の方針と必ずしも相容れませんでした。

そのため、北条時行の旗印に集う者が多く現れ、短期間で鎌倉を奪還するほどの力を示しました。

また、この乱が歴史の転換点となったのは、足利尊氏の存在に大きく関わっています。尊氏はこの乱を収めた武将でありながら、その後は独自に勢力を拡大し、後醍醐天皇と鋭く対立する道を歩みました。

つまり、中先代の乱は単なる反乱にとどまらず、日本の政治秩序を大きく揺さぶる引き金となったのです。