【山崎の戦い】なぜ豊臣秀吉は明智光秀を倒すことにしたのか

日本の戦国時代は、武将たちが覇権をめぐって争い続けた時代でした。その中でも本能寺の変と直後の山崎の戦いは、大きな転換点として知られています。

1582年、織田信長を討った明智光秀を、羽柴(後の豊臣)秀吉が山崎で打ち破ったことにより、秀吉は一気に歴史の表舞台へと躍り出ました。

では、なぜ秀吉は急いで光秀を討つ決断をしたのでしょうか。本記事では、その動機をわかりやすく解説していきます。

山崎の戦いにおける豊臣秀吉の動機とは

山崎の戦いの位置づけ

山崎の戦いは、本能寺の変からわずか十数日後に起こった合戦です。本能寺の変では、明智光秀が突如として主君である織田信長を討ち、政局は大きく揺らぎました。

当時の織田政権は全国統一に向けて勢いを増しており、その中心人物であった信長の死は、家臣たちにとって計り知れない衝撃でした。

秀吉はそのとき中国地方で毛利氏と対峙していました。通常であれば膠着状態が続く戦でしたが、信長の死を知るや否や、ただちに毛利と急ぎ和睦を結びます。

そして自軍を整えたまま京に向けて引き返しました。この迅速な撤退行軍は「中国大返し」と呼ばれ、後世まで語り継がれるほどの機動力を示しました。

こうして秀吉は光秀軍を山崎の地で迎え撃つことに成功し、織田政権の次なる担い手を決める歴史的な分岐点をつくり出したのです。

個人的要因:秀吉自身の野心と心理

信長との関係から生じた恩義と責任

秀吉はもともと身分の低い出自でしたが、信長に抜擢されて頭角を現しました。

織田家の家臣として出世を重ね、中国地方の大名・毛利氏と戦えるほどの地位にまで上り詰めたのも、信長が彼を信頼し続けたからにほかなりません。そうした背景から、秀吉にとって信長は単なる主君ではなく、人生を切り開いてくれた最大の恩人でした。

そのため、信長を討った光秀を放置することは、秀吉にとってあり得ない選択でした。自らの行動を「仇討ち」と位置づけることで、家臣団や民衆の心情にも訴えかけることができました。

恩義と大義名分が重なり合ったことで、秀吉は迷いなく迅速に行動へ移すことができたのです。

自身の出世欲と天下取りの布石

一方で、秀吉は極めて強い上昇志向を持つ人物でした。信長亡き後、織田家の誰が権力を握るかは定まっておらず、柴田勝家や丹羽長秀といった有力な重臣も存在しました。

つまり、次の主導者が誰になるかは流動的で、秀吉にとっては自らを押し上げる好機でもあったのです。

光秀を討ち取ることは、単に忠義を果たすだけではなく、織田家の中心人物として発言力を強める決定打になり得ました。

さらに、戦国の世を治めるには「武力による実績」が欠かせません。大きな戦で勝利を収めれば、諸大名からの評価も高まり、次の天下取りへの足がかりとなるのです。

秀吉にとって山崎の戦いは、未来の地位を築くために欠かせない勝負所でした。

経済的要因:領地と利権の確保

畿内掌握の重要性

山崎の戦いが行われたのは、現在の京都府と大阪府の境にあたる地域です。

この一帯は古来より政治の中心である京都を押さえる要衝であり、また流通や交通の結節点でもありました。畿内を確保すれば、名実ともに政権の中枢を握ることにつながります。

経済力は戦国大名にとって軍事力の源泉であり、京やその周辺を支配することは兵糧や資金の安定供給に直結しました。

秀吉にとって、この地域を抑えることは将来の拡大戦略を進めるための土台となったのです。

光秀討伐による利権確保

光秀を討つことで、山城国や京都の支配権が秀吉の手に移ります。

ここには商業や手工業の拠点が集まり、また西国や東国を結ぶ流通の要所としても機能していました。秀吉が得たのは単なる土地ではなく、経済の中心そのものでした。

この豊かな収入を背景に、秀吉は兵を養い、武器や城を整備することが可能になります。さらに、恩賞として土地や利権を家臣に分け与えることで、人心を掌握することにも成功しました。

経済的基盤を強化することは、戦国時代における権力を盤石にするために不可欠であり、秀吉は光秀討伐によってその条件を満たしたのです。

政治的要因:織田家の後継争いへの対応

織田信長の死による権力空白

信長は各地の有力大名を従え、天下統一へ最も近い立場にありました。その信長が突然倒れたことで、織田家中には大きな権力の空白が生まれました。

光秀は自ら新しい主導者となることを狙いましたが、挙兵が突発的であったため十分な支持を集めることができませんでした。むしろ多くの家臣から「謀反人」と見なされ、孤立を深めていきました。

一方で、秀吉は信長の死を利用して「主君の仇を討つ」というわかりやすい大義名分を得ました。この旗印は民衆や兵士にとっても受け入れやすく、また織田家の他の有力家臣たちの協力を引き出す強力な武器となりました。

織田家重臣としての立場確立

織田家には秀吉以外にも、柴田勝家や丹羽長秀など、有力な家臣が存在しました。彼らは信長の死後、それぞれに発言力を強めようとしていました。

そのため、秀吉が光秀を最初に討ち取ることは、彼自身が織田家の中で最も主導的な立場を取るための決定的な一手となりました。

さらに、秀吉は自らの行動を「忠義」として強調しました。すなわち「自分は裏切り者を討ったにすぎない」という姿を打ち出すことで、周囲からの批判を避けつつ、自らの行為を正当化したのです。

山崎の戦いは、秀吉が政治的な正統性を確立するための最初の大きな試練であり、その勝利は彼の立場を一気に固めるものとなりました。

多面的に絡み合った動機

山崎の戦いにおいて、豊臣秀吉が明智光秀を討った動機は、一つの理由に絞ることはできません。

織田家の後継争いという政治的要因、軍事的な有利さ、主君への恩義と自らの野心、そして経済的利益の確保。これらが複雑に絡み合って、秀吉を動かしました。

その結果として秀吉は勝利を収め、織田家中で最も強い影響力を持つ存在へと成長しました。

山崎の戦いは、秀吉が天下人へと歩み出す第一歩であり、日本史において大きな転機となったのです。